« 行政官僚と産業界との癒着は封建制度時代から引き継がれている国のかたちと・・・・・デンマーク人は幸福な国をつくることに成功したのか どうして、日本では人が大切にされるシステムをつくれないのか 単行本–2008・2 ケンジステファンスズキ (著) | メイン | ほめることで、すべてが好転するという成果があらわれたことを、同志社大学・政策学部教授の太田肇教授に共同研究して頂いていますが、「ほめ達!」理論もきちんと、後付けで証明されているのです。見習おう。  GDP4%の日本農業は自動車産業を超える (講談社+α新書) 新書 – »

2016年1月28日 (木)

第7章 福祉制度をつくり出したデンマーク・福祉を考えなかった日本・平成28年1月28日 木曜日・

引用


ほめることで、すべてが好転するという成果があらわれたことを、同志社大学・政策学部教授の太田肇教授に共同研究して頂いていますが、「ほめ達!」理論もきちんと、後付けで証明されているのです。見習おう。  GDP4%の日本農業は自動車産業を超える (講談社+α新書) 新書 –

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/02/gdp4-5e99.html

17:52 2016/02/03


引用下條村 自治体はこうやって運営する 河村市長も同意? 1/2 

effectmangt   effectmangt

https://www.youtube.com/watch?v=z8PwWydCDMQ

11:15 2016/01/29



第7章 福祉制度をつくり出したデンマーク・福祉を考えなかった日本・平成28年1月28日 木曜日・


 ・1・200年前の「貧困救済計画」の先進性・147頁・


中世の社会では、キリスト教会が貧困層のセイフティーネットの役割を果たしていました。しかし、デンマークでは1536年、宗教改革によってカトリック教会が退廃し、ルーテル教会がデンマークの国教になりました。その際、カトリック教会が所有していた土地や財産が没収されたうえ、カトリック教会の重税に喘いでいた市民や教会や修道院を襲ってその財産を略奪しました。

しかし、カトリック教会は病人や障碍者、親のいない子女を介護する施設を運営していたため、その機能が失われると、その余波が品構想にも及び社会的弱者が町に放り出され、多くの餓死者が出ました。カトリック教会、修道院に代って貧困層を救済する社会的な仕組みが必要となったのです。

先ほど紹介した「クリスチャン5世のデンマーク法」(1683年)では、品構想に向けた施設の建設を各市町村に命じています。この法律によって貧困層の救済は地方行政の責務とする現在のデンマークの社会福祉の原型が形づくられていきます。147・


148頁・1708年、政府は「乞食の禁止に関する法令」を施行し、貧困層の経済的救済を目標に掲げました。またコペンハーゲン市では、貧困救済を目的とする税が導入され、公務員給与への1%課税、宿屋・飲み屋などのサービス業界への課税、納税額の制限を設けない任意の納税が奨励されました。

1753年には「コペンハーゲンロット」と言う賭事に対し、年間3,000スダーラ(1537年から1872年までデンマークで使われた貨幣単位)の納税義務を課し、固定資産税を増額(1762年)、不動産や船舶の取引税(取引額の0・25%)、コペンハーゲン港湾税(取引額の0・25%)を徴収し、救済資金の原資を集めています。すでにこのころからギャンブルへの課税、不動産への火事が国家財政の歳入減の1つとして考えられていたことが分かります。

その後、コペンハーゲン市では「貧困者救済支援策改善に関する委員会」が設置され、「コペンハーゲン貧困救済計画」(1799年)が公布されています。この救済計画では、「貧困局は自活できない者に対する救済義務を負う」「貧困者の救済は社会の義務」と貧困者に対して衣食住医を保障することが公的責任だと認めています。

コペンハーゲン市が導入した「貧困救済計画」は7項目からなっています。

・1・病人への医療施設での治療及び介護などの際、貧困者は無料。

・2・コペンハーゲン市を行政区に分け、その区毎に貧困局から医師1名を派遣し、病人や疾病者監督介護にあたる。148・


149頁・

・4・貧困者の妊婦を救済するため、助産婦の無料往診の実施。


・5・貧困者家庭の児童の保護と就学への支援策として幼稚園や学校への入園入学支援の実施など。


・6・事故や病気で借金が増え、生活保護を受けなければならないと見做した家族や個人に対し、再起を図るための施策として、抵当に入った物件の回収や給与の前払い策の導入。


・7・失業者に対策として貧困局が独自に起業し雇用を確保し、民間会社への就業においては、給与の補てんを実施する。

この7つの社旗福祉政策の基本支援策は、現在でも通用する施策で、政策立案者の見識の高さに驚かされます。


1803年にはデンマーク全土を対象とした「貧困計画」が実施され、政府は「貧困計画」を施行するため「貧困局」を開設して、高齢者や疾病者への介護と医療を受け持つようになりました。


・2・国家の倒産と社会福祉システムの崩壊・149頁・

この様な先進的な「貧困対策」が導入する一方で、イギリスを相手にした「7年戦争」(1801年~07年)が戦われていました。この戦争は、イギリス政府がデンマーク政府に対して、スウェーデン、ロシア、プロイセン(現ドイツ)との間に結んだ軍事中立同盟から離脱することを要請したことに端を発したものですが、入りし酢政府はデンマークに対して宣戦を布告し、コペンハーゲンに向け海軍を出軍させました。149・


150頁・

イギリス軍のコペンハーゲン市への艦砲射撃によって、市内の70%が破壊され、2000人以上の死者が出るなど、大きな被害を受けたデンマークは戦艦18隻をイギリスに引き渡すことを条件に降伏しました。


1813年、この「7年戦争」によって、以前からの財政難と終戦処理の出費でデンマークは「国家の倒産」を余儀なくされ、貧困者への救済は制度は成り立たなくなっていきます。翌年には、それまで434年間統治していたノルウェーをスウェーデンに割譲し、デンマークは小国に転落していきます。

1824年には、貧困者同士の婚姻を禁止し、貧困者の子供が増えない政策を導入しています。しかし表・1のとおり、このころは国債の返済費だけで国家予算の約4割を占め、貧困者、障碍者に対する経済的救済ができる財政事情ではなくなっていました。


・3・自治体が受け持つ3つのセイフティーネット・150頁・平成28年1月28日(木)


・クリスチャン8世の時代(1839年~48年)には市町村の自治権が拡大され、貧困者、障害者、疾病者の救済は市町村が受け持つことになりました。150・


1850年のデンマークの人口を職業別(表2参照)に見ると、1801年当時と比べ(131頁参照)、農業部門の人口数が減り、手工芸、工業、商業、販売業に携わる人々が多くなりました。商工業者の増加によって給与所得者が増え、給与所得者が品構想に転落しないための社旗的な施策、社会福祉の充実が求められていました。


この当時、公的セイフティーネットは3つに分かれていました。


・「貧困者」層に入らないための救済・・・貧困者層の児童の養育と教育を受ける機会の保障が行われました。貧困者の子供たちも均等な教育が受けられること実現して、それによって次代が「貧困層」に転落することを防止しています。


・貧困と自治を繰り返す人びとへの救済・・・繊維工場などの職場の確保や職業訓練所の設置を通し、働く場所と技能を身につけさせることで自活の条件を整備してきました。今日においてもデンマークには失業者や転職を希望する人たちのための職業訓練所が多くあるのは1800年代の後半から導入された貧困者救済策に淵源があります。151・


152頁・

・公共の助成を通し自活の道を見出す人びとへの救済・・・給与の助成(一部負担)や倒産した事業主への助成策(借金返済の肩代わり)などの政策が行われました。今日においても、失業者対策の一環として、給与の一部を公共が負担するという助成策がありますが、これも1800年代の後半から導入されてきた施策です。


・4・国民生活への最低限のセイフティーネット・152頁・平成二十八年一月二十八日・


現在のデンマークでは国民生活への最低限のセイフティーネットは次の5つと考えられています。


・1・生活費の扶助・・・住宅費の補助、生活費の現金支給など、生活に困った人たちへの各種の支援策。


・2・医療費の扶助・・・いかなる病気で入院しても入院費の個人負担はなく、年齢・病状に合わせた多くの助成策の実施。


・3・障害者の介護費の扶助・・・障害者用住宅の完備や職場の設置、自立支援のための車の手配や住宅の改造など多くの支援策の実施。


・4・高齢者福祉費の扶助・・・高齢者の扶助は国家の責務として、在宅介護制度、介護センターの完備など、高齢者が必要とする各種の施設や支援策の実施。152・


153頁・

・5・教育に関する補助・・・学校教育は大学も含めて授業料は国庫負担。18歳以上の就学中の学生には就学基金を支給。国民の能力を開発する生田目の教育費は国民全体で賄う制度設計。


・5・日本では国民のための福祉政策が実施されたことが無い・153頁・


日本の社会福祉政策の歩みを見て、鎌倉時代以降の約670年の封建社会体制の中で、日本の中央政府が国民のために社会福祉政策を行ったことが無いようだというのは過信でしょうか。

日本では貧困者の救済は各藩や寺などの私的団体に任され、幕府あるいは天皇と言う中央政権が貧困者の救済の政策を実施した事実を日本の歩みの中には見つけることはできませんでした。たしかに、個々には窮民者救済のための施策が時には行われましたが、権力維持のための一時的な対応策の性格が強く、貧困問題の解決に向けたものと評価することはできません。


たとえば、鎌倉幕府が「元寇」後に発令した日本初の徳政令と言われる「永仁の徳政令」(1297年)は、武士階級の財政難を救済する目的のためで行われたもので、実際には貧困層に犠牲を強いるものでした。


貧困者の救済策として上杉謙信(1539年~78年)や武田信玄(1521年~73年)が採った凶作時の租税の削減や治水事業などの慈善事業がありますが、農民の離村の引き留め策、農民の税負担力の向上など、権力維持のための政策と言うことができます。江戸時代、藩の財政難にもかかわらず、窮民救済を図った例外的な藩主として挙げられるとすれば、備前岡山藩主池田光政8農業改革や天災飢饉の半民の救済)、加賀藩主前田剛紀(高齢者福祉)、米沢藩主上杉治憲(凶作に備え社倉を充実させ、藩の財政難の打開)ではないでしょうか。153・


この間図があり・ここまで


156頁・日本における窮民者の救済に努めた外国人では、キリスト教の伝道師のフランシスコ・ザビエル(1549年来日)が養護老人、孤児、貧民の救済活動・慈善活動に従事し、また、来日年が不明ですがポルトガルの宣教師ルイス・アルメーダが孤児院や寮病院を開設して慈善事業を行ったことが挙げられます。


しかし、封建社会の権力者にとって、日本にキリスト教信者が増えることは、権力者の地位を脅かす存在として判断したためか、豊臣秀吉はキリスト教の布教を禁じ(1587年)、徳川幕府の時代においてはさらにキリスト教徒の迫害を強め、ポルトガル人の居住と来航を禁ずる鎖国令(1637年)を発布します。この結果、キリスト教伝道師が始めた窮民者の慈善事業の水脈も失われていきます。


日本ではお金のある人とない人では、生命や人間としての尊厳を左右する医療・介護の場でさえ受け入れてもらえる施設が違います。その実態を多くの人が良としているか、仕方がないものとして受け入れています。また、社会福祉と言う分野でも介護センター建設や運営を許可、監督する権利者(官庁)と民間業者の間に汚職や癒着が生まれています。


日本の憲法の理念、社会福祉に関連する法の理念と制度自体は、生活保護法、児童福祉法、身体障害者福祉法、老人福祉法、母子福祉法などどれを取ってみても、デンマーク並みの整備がなされているように思います。しかし、生活保護受給者が保護を一斬られ、餓死する事件を見ると、社会福祉の現場の実態はデンマークと会は大きな違いがあります。いわゆる「仏作って魂入れず」の事態をどう解決していくか日本国民に課せられた大きな仕事だと思います。156頁・平成28年1月29日・



まで平成28年1月28日

引用2016年1月29日 (金)この例のようにデンマークと言う国では国民の意思が政治に直接反映するシステムが出来上がっています。「国家運営」に国民1人一人が参加しているという実感が持てる国になっています。こうした意識の形成に学校教育が大きな役割を果たしています。166・第9章 教育の目標は「国家運営」に参加する国民をつくること・平成28年1月29日・

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/9-28129-72e2.html

8:27 2016/01/29


なぜ、デンマーク人は幸福な国をつくることに成功したのか どうして、日本では人が大切にされるシステムをつくれ


ないのか・第4章 デンマーク人が国を愛する心の原風景・平成28年1月26日・http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/01/4-28126-6e43.html

 16:46 2016/01/26


なぜ、デンマーク人は幸福な国をつくることに成功したのか どうして、日本では人が大切にされるシステムをつくれないのか 単行本 – 2008・2 ケンジステファンスズキ (著) 5つ星のうち 4.4 12件のカスタマーレビュー http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/01/20082-5-44-12-3881.html

9:36 2016/01/26 


2016年1月23日 (土)第2次世界大戦の敗北により、人心・国土とも荒廃したドイツ。その復興を担ったのが、73歳で首相に就任、14年間その座にあったアデナウアーである。戦前、ケルン市長として活躍した彼だが、ナチに迫害され引退。戦後、保守政党を率い、「復古」「反動」のレッテルを貼られながらも、常 著書に『ドイツの憂鬱』、『新生ドイツの挑戦』(丸善ライブラリー)、『あっぱれ技術大国ドイツ』、『ドイツ病に学べ』『住まなきゃわからないドイツ』『びっくり先進国ドイツ』『顔のない男・東ドイツ最強スパイの栄光と挫折』(以上、新潮社)など。

http://amamioosoma.synapse-blog.jp/yosiharu/2016/01/27314-5f56.html

14:54 2016/01/23


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