«  前・岩手県滝沢村村長柳村純一は働かない300人の会社(村役場)をどう再生したのか。「破綻しない自治体」・鳥取県知事・・平井伸治・・みんなでやらいや未来づくり・やぎくさかり | メイン | 64頁・平成26年11月19日 まで・第2章 職員三〇〇人のお役所意識を壊す・41頁・平成26年11月16日・日本では、財団法人経済生産性本部が主体となり、1995年12月に「日本経営品質賞」を創設。1997年に第一回の受賞企業を発表している。 »

2014年11月 8日 (土)

26頁・・34頁・まで・・・第1章 おらほの「役場」を「会社」に変える・ ・村長就任の最初の挨拶は「弊社の皆様!」・20頁・・「ベルリンの壁」より厚い役場のセクショナリズム・

いんよう


増田俊男氏の・・黒田日銀は国債買いで金利を押さえながら物価2%目標を達成するまで無制限、無期限に緩和を断行するという。不必要なマネー(水)をタライに入れ続けると魚にとって水(マネー)の価値が下がり、マネー安(円安
http://amaminagata.blog.fc2.com/blog-date-201411.html
9:06 2014/11/08


「日本一の村」を超優良会社に変えた男 単行本 – 2007823 溝上 憲文   (著) 容説明

IBM、リコーと同じA+評価を得た自治体人口5万4000人でも市にならない岩手県滝沢村は、日本経営品質賞を得た日本一の優良自治体。決して破綻しない組織、成果主義の機能する組織がここにある!

アサヒビール、日本IBMと並ぶA+評価を獲得した「社長」。前・岩手県滝沢村村長柳村純一は働かない300人の会社(村役場)をどう再生したのか。「破綻しない自治体」のつくり方。


目次 1頁・

第1章 おらほの「役場」を「会社」に変える・ ・村長就任の最初の挨拶は「弊社の皆様!」・20頁・14・11・8 5時34分・26頁まで

1994年11月。このみちのくの山村で全村長が逝去に伴う村長選が実施され、柳村純一は6つどもえの激しい戦いの末、44歳で初当選を果たした。前回の1990年の村長選でも村議を辞めて立候補したが落選。

今回の立候補は元村議会議長や元収入役などいずれも知名度の高いお歴々ばかりで、柳原は泡沫候補とみなされていたため、少なくとも役場の職員で当選を予想するものは誰ひとりとしていなかった。

21頁・


しかし、他の候補者が選挙地盤を共有していたのに対し、柳村の出身地には競争相手がいなかったことも幸いして、頭一つ抜け出したことが勝因となった。

村長不在のため、柳村は当選翌日に早くも登庁。村長就任の手続きを終えた午前10時、ほぼ全員の300人近い職員が集まる隣の公民館に出向いて登壇した。


 

居並ぶ職員たちは、前日の選挙結果が未だに信じられない様子で、新村長が一体何を話すのか興味深いといった雰囲気が場内に漂っていた。

その空気を12分に感じ取った柳村は、第一声で職員にこう呼びかけた。


「弊社の皆様・・・、今回新たにこの村の村長に就任した柳村真一であります」弊社?社長?警察官が警察組織のことを隠語で「わが社」と言うことはあるが、大方の職員は洒落と受け取った。だが、柳村は本気で役場を「会社」に変え、自分自身も「社長」になろうと考えていた。


1994年といえば、日本はバブル経済が崩壊し、大企業をはじめとする民間経済は、後に「失われた10年」と呼ばれる大不況期にさしかかる兆しが見え始めていた頃だ。やがてそのしわ寄せは地方自治体にも襲うことにある。


柳村には、民間流の経営手法を持ち込むことで村をよくしたいという思いが芽生えていた。

22頁・

柳村は村長選出馬の思い出をこう語る。「私が村長になれば、もう少しまともな行政が出来そうだという思いはありました。それに、若い頃、東京で働いた経験から、滝沢村は本当にいいなと思っていたんですよ。

一時都会に住んでいただけに、田舎の良さを身にしみて感じていました。そこで、この村を少しでもよくしたいと思って選挙に立ったのです。しかし、村を良くするには、まずは役場の職員の意識を変わらなくてはならない。就任の挨拶を「弊社」で始めたのは意識的に使ったもので、ぬるま湯の役場にショックを与えたいとおもいがあったのです」


役場に民間流の経営意識を持ち込もうとしても、簡単にできるものではない。

まずは職員が日々何を考え、どういう意識で公務を行っているのか知ることが重要だと考えた柳村は、就任当初から情報収集と職員のコミュニケーションに徹した。村長室を飛び出して、毎日現場を歩いては職員に声をかけた。コミュニケーションの最大のツールは「飲み会」である。職員に会うと「飲み会があるときは俺も誘えよ」と言うのが日課となった。


「とにかく、なるべく多くの職員と酒を飲むことを優先しました。議員時代に名前を知っている職員もいましたし、どこかの部署で花見があると聞けば出て行って飲んで、話をしました。歓迎会や送別会、仕事が終わったあとの打ち上げ、夏はビアガーデンと、いろんな機会を見つけて飲み会に参加し、結果的に一年経ない相田に300人の、ほぼ全員と飲むことができましたね」

23頁・

午後の四時ぐらいに柳村が現れると、「あっ誰か飲む相手を探しているな」と次第に職員に読まれるようになっていく。

村のトップがそんなことをしては権威が落ちる周囲に注意されたこともあったが、そんな声に耳を貸すことなく、柳村は「飲み二ケーション」に徹した。


勉強せず、働かず、膨大なムダを発生させる役場・23頁・14/11/8 6時46分・


職員とうち解けつつ本音で語らううちに、ここの職員の人柄や気質、人間関係あるいは役場内に存在する派閥の構造も知ることができた。

そして、役場の情勢分析が進むうちに、自分が進めようとしている改革イメージとあまりにかけ離れていることに愕然とした。

村議時代の柳村は、「行政」という組織は素晴らしいと思えたこともあった。だが、一議員レベルではしょせん行政の外側しか見えておらず、職員も議員を単に物言う「お客様」としてしか捉えていないことに改めて気づかされた。


実際に内部に足を踏み入れると「稼いでいるのか、稼いでいないのかわからない。つまり、何の仕事をしているのか見えないし、職員は元気がなくて職場も暗い。やる気を失っていた」と柳村は言い切る。

24頁・

その典型が学習意欲の欠如である。

バブル崩壊後の日本経済は奈落の底に突き落とされ、グローバル化を迎えた日本の産業・社会構造が大きな転換を迫られていた時期である。社会の地殻変動が地域にどういう影響を与えるのか。


真っ先にそれに関心を持って、世の中の動きを分析するのが住民サービスの先頭に立つ行政マンの仕事のはずである。

ところが、柳村が目にしたのは、そんなことを一顧「いっこ【一顧】人の警告に一顧をも与えない彼はその計画を一顧だにしなかった」だにしない職員の、目を覆うばかりの「惨状」だった。


「公務員のくせに勉強しようとしない。ニュースも見ないし、読んでいる新聞といえばスポーツ新聞か競馬新聞。そういう人たちが圧倒的に多かったのです。「一般紙も一面から開いているのはせいぜい総務課の2~3人。彼らだって、トップの直属だから、ルーティンワーク「ルーチン‐ワーク【routine work】 きまりきった日常の仕事。日常業務。ルーチン業務。」として新しいニュースを届けなければいけないから、仕方なく見ていたに過ぎません。経済新聞なんて手にすることもない。


私たちは世の中分析しようと思わないのか・・・。経済や世界がどんな動きをしているのか、日本の未来がこれからどうなっていくのかという関心を、まったく持っていなかったのです」当然、こうした雰囲気から生まれるのは惰性に堕した仕事ぶりと「事勿れ主義」の横行である。

「ことなかれ‐しゅぎ【事勿れ主義】 いざこざがなく、平穏無事に済みさえすればよいとする消極的な態度や考え方。」


25ページ・

澱んだ職場にありがちな光景を眼前にして、柳村は嘆息した。「なんとなくウロウロ歩いているだけで仕事をしない人がいる。何となく仕事をしているようだけど、黙って席に座ったままの人もいる。なんの仕事をしているのか全くわかりません。かと思うと、ひたすら一生懸命コピーをとっている人もいる。

もっとひどいと思ったのは、物を大事にしないことです。職員の机の引き出しを開けてみると、鉛筆からボールペン、蛍光ペン、カッター、ハサミ類がごちゃごちゃ入っている。

一人ひとりが、これらを全部持っていなきゃいけないのか疑問でした。しかも、それをだいじにしているとはとてもおもえませんでした。」

ここの職員がどういう使命をもって仕事しているのかわからない職場では、自ずと自己満足のみを追求しがちになる。その結果、イミのない、生産性とは直結しない膨大なムダを発生させることになる。

その典型的例が、誰に向けて書いているのかわからない文書だ。例えば起案文書である。


書類一枚で済むものを二枚、三枚と枚数が多い方が、作る側として仕事をした気にはなるかもしれない。だが、読む方にとってみれば、趣旨からそれた文字を書き連ねた文書ほど読みにくいものはない。高した、誰も読まない文書のやり取りが滝沢村でも横行していた。

とくに、行政が実施する新たな計画の類になると、その量は膨大になる。柳村は「福祉分野で言えば、母子保健計画や介護権事業などの計画書の文書量は10センチ以上の厚みになる。担がなければ持てないような量の文書が出来上がっていた」と苦笑する。


26・14/11/8 8時56分・

「ベルリンの壁」より厚い役場のセクショナリズム・26頁・平成26年11月8日・

さらに、自分の部署と関係ない仕事は極力排除するセクショナリズム「セクショナリズム組織内のある部門が党派的利害や権限に固執し、排他的になる傾向や状態。セクト主義。派閥主義。縄張り意識。」と・事勿れ主義・が役場全体に蔓延していた。

そういう職場は、前例のない新しい問題が降りかかると、とたんに右往左往「うおう‐さおう【右往左往】うろたえてあっちへ行ったりこっちへ来たりすること。あわてふためいて混乱したさまをいう。」して機能不全に陥る。

1999年に政府与党の肝いりで浮上した「地域振興券」こそ、役場を混乱に陥れた典型的事例だった。

地域振興券は子育て支援と老齢福祉年金時給者や所得の低い高齢者の経済的負担を軽減し、地域の振興を図るのが目的とされた。具体的には、財源は国が全額補助して、日本全国の市区町村が発行し、一定の条件を満たした住民に一人に万円分の地域振興券を交付し、発行した市区町村内の店舗でのみ利用できるというものだった。

ただし、交付対象者には一定の制限が設けられており、例えば満65歳以上の高齢者については、市町村民税の非課税者、及び課税される者の税法上の被扶養者は対象外とされた。

滝沢村役場では地域振興券の交付に当たり、どこの部署が担当するかで協議を行なったが、揉めに揉めた。会議には、住民課を始め、税金も関係するということで税務部門や、高齢者福祉担当、福祉分野、それから総務課の担当者も出席をしていた。

27頁・

この時の混乱ぶりを柳村はこう述懐する。

「高齢者世帯だけだならいいんですが、所得制限や扶養の問題もあり、どこの部署が担当するべきか何度も会議をやりましたが、全く決まらない。なぜかといえば、出席した課長補佐や課長にとって、仕事を増やすことは部下にとって、「ダメな上司」というレッテルを貼られるような風潮があったからです。だから、誰も引き受けようとせず、互いに押し付け合って、何回やっても決まらない。

それで最後にどうなったかといえば、結局は、総務課がやることになったのです」300人にも満たいない役場にはびこるセクショナリズム「セクショナリズム組織内のある部門が党派的利害や権限に固執し、排他的になる傾向や状態。セクト主義。派閥主義。縄張り意識。」と、余計な仕事には手を出そうとしない「ことなかれ主義」の風土を支えていた要因のひとつは職階の壁である。


当時の役場は、一般職員の上に係長、課長補佐、課長、助役、尊長と言う6つの階層に分かれていた。仮に現場の職員が新しいことをやりたいと起案しても、上に届くまでにかなりの時間を要した。

たとえば、中間の役職者が出張もしくは風邪で休んでいたりすると、その段階で起案書が止まってしまう。起案してから上まで届くのに二週間かかかることも珍しくなかった。そして、柳村が最も「頭にきた」のは組織間の壁だった。

「係りと係りの壁」、課と課との壁です。同じ課の中に係りがあればそれだけで壁ができます。例えばひとつの係りが忙しくしている時、隣の係は暇でも、見ないふりをして手伝おうとしないのです。


28頁・


それが課と課になるともっとひどくなる。「ベルリンの壁」が10倍も厚くなるなったようなものです。


そうした仕事ぶりを見るたびに、「なぜ壁が必要なのか」「我々は誰のために仕事をしているのか」「誰がいるから我々の役場があるのか」という思いに駆られたのです」

こうしたセクショナリズム意識と、目的を失った、「仕事のために無駄な仕事をする」風土は何も公務員に限ったことではないだろう。民間企業でも、1990年代以前はよく見られた光景である。


いや、未だに旧態依然としたヒエラルキー「ヒエラルキーヒエラルキーとは、階層制や階級制のことであり」型組織を維持していて、商品が売れない理由を他の部門のせいにするという暗闘を繰り返した結果、商品がますます売れなくなるというジレンマを抱える企業は少なくない。


解決策の見えない職場には、暗く沈痛な雰囲気が漂い、社員たちはひたすら「仕事をしている風」を装うだけとなり目先の利益と自己保身にのみ熱中する。

その象徴的なケースが、無駄な残業の横行と足の引っ張り合いである。滝沢村にもこのように疲弊した組織の兆候が表れていた。


「夕方五時までは役場内をウロチョロしていて、5時になったら、ああ疲れた、今日も仕事をしたもんな、さあこれから残業だという人もいましたね。

29頁・14/11/8 10時36分・


ローンを払うために計画的に残業をする人もいれば、家に帰るのが嫌だから残業をしている人が、実際にたくさんいたんです。さらには、やらなくてもいい残業手当を計算するために残業をしている総務課の職員もいるわけです。

これはおかしいと気づいてもいいのに、誰も気づきたくない。人間誰しも楽をしながらいっぱい金が欲しいし、そして遊びたいのです。世の中が変わってきているのに、、今までの仕組みが一番いいに違いないとして、全然変わろうとしない。


定年の2~3年前ぐらいになると、あともう少しだ、あまり波風を立てないようにしようという思いにもなる。


だから、退職の挨拶も「皆さんに支えられて大過なく果たさせていただきました。皆様のご協力に感謝します」というのが常套句なんです。大過がないというのは、満足に働かなかったということと同じです」

また、ヒエラルキー型の上意下達組織にありがちなのが、人事査定における減点法から来る、失敗を許さない風土である。出世するためには、大過なく過ごしながらライバルの失敗を心待ちにするようになる。


「職場内が足の引っ張り合いですから、人の失敗を喜びます。例えば同僚クラスが失敗すると、「よし、今度あいつが課長になると思っていたけど、失敗したから俺の番だ」と考えるようになる。


失敗を許さないから、結局、誰も新しいことをしなくなってくるのです」こんな状態が続いていれば、民間企業なら間違いなく倒産しているだろう。

30頁・


村が倒産をまぬがれたのは、住民サービスを維持し、職員の賃金が滞ることのない収入(税収)が存在していたからである。そして、職員の誰もが気楽に仕事が出来たのは、まさか財政が悪化することはないと信じて疑わなかったからである。

30頁・14/11/8 13時51分・


忍び寄る財政危機に備えるには「意識改革」しかない!・30頁・14/11/9 21時16分・


実は、柳村の抱える究極の危機感は村の財政にあった。


地方自治体の財源は、地方税などの収入と、国から与えられる地方交付税交付金や国庫支出金の大きく二つで構成されている。その比率は、全国平均では5対5と、自治体の財源は大きく国に依存している。しかも、地方交付税交付金を除いてほとんどが「紐付き財源」であり、自治体が自主的に使える財源は三割ほどしかないのが実態だ。

もちろん滝沢村も例外ではない。

当時の村の財政規模は年間130億円だったが、その大半を国に依存しているといっても、滝沢村は盛岡市のベッドタウンとして人口が増えており、地方税集が伸びる一方、地方交付金も削られることはなかった。そのため、職員の中で誰一人として、財政に危機感を持つ者はいなかった。

31頁・

しかし、柳村だけは村の財政がこのまま続くだろうとは考えていなかった。


「当時、国法では「財政構造改革」という言葉が頻繁に飛び出していました。国の財政構造改革はいずれ地方にも影響するし、間違いなく地方交付税を削ってくるだろうとう予感がありました。

世間がバブル崩壊で騒いでいるのに、役場の職員には危機感が全然ない。従って、物は大事にしないし、金は天から降ってくるものだと呑気に構えている。こうした意識を変えないと、どうしようもないと思いました」

しかし、一方的に村の職員を責めるのも酷かもしれない。


これまでの自治体は、日本経済の発展に伴う国民所得の増大とともに税収が増加し、しかしその使徒は多くを国に縛られ、まさに収入は「天与のもの」として、金を使い切ることが自分たちの仕事であるという風土の中で育ってきたのも事実なのだ。


バブル崩壊以降、政府は景気立て直し策として公共事業を通じた景気刺激策を実施した。しかし、公共事業を実施する自治体は、国が支出する国庫負担金とは別に応分の負担をしなければいけない。事業規模が大きくなれあ、自治体の能力を超える。当然、不足する金は借金で賄わなければいけない。景気低迷で税収が不足する中で借金だけが膨らんでいく。


1990年度末には67兆円に過ぎなかった地方の借金の残高が、15年後に200兆円以上にも膨らんだ責任の一端は、むろん国にもある。


32頁・国も地方も巨額の借金を抱え、台所が火の車となりつつある中で、全国の自治体ではあいも変わらぬ部署同士の「予算分捕り合戦」が展開されていた。

滝沢村も例外ではなかった。


予算編成の折には、各部門の責任者は前年より多くの予算を獲得することを血道を上げる。財政担当者や他の部署とつばぜり合いを展開しながら、少しでも多くの予算を自分の部署に持ち帰ろうとする。それができるのが「優秀な課長」とみなされ、周囲の評価も高まる。


そして、いったん予算を獲得すれば、今度はその消化に向けて邁進する。


翌年三月末までに「執行率99・2%」とか「99・6%」などと議会に報告するが、執行率が低いと議員に叱られる。議会も役場も獲得した予算を100%使い切ることが住民のためだと信じて疑わない。その結果、予算が余ると困るから、無駄とわかっている事業に注いで使い切ることに専念する。

単年度予算決算主義という財政の陥穽・・・。


自治体財政の宿命とはいえ、目の前で繰り広げられる異様な光景を見て、柳村は空しくやるせないものを感じていた。そこにあるのは日本が繁栄の途上にあった牧歌的時代の、旧態依然たる遺物でしかない。

今の仕組みや法律が変えられないのなら、滝沢村自身が全国に先駆けて変わるしかない。

33頁・


柳村は「行政の矛盾を放置しておくわけにはいかない。経営という考え方を入れなかったら、自治体は本当に倒産する」という思いを新たにした。

「単年度予算決算主義という仕組み自体おかしいのです。来年のことを考えず、ましてや再来年のことなんか頭になくて、あるだけ使い切る。これまではただ、自分の部署内でなにをやるかという考えだけでやってきたのです。議会に怒られなければいいんだという感覚です。


単に数字だけにこだわり、中身は何をやっているか、本当にやってよかったのか、やる必要があったのかというところまで気を使う仕組みがなかったわけです。法律ももちろん悪いが、法律のせいにだけにしていては済まされません。職員一人ひとりが、考え方を正していかなければいけないと思ったのでうす」


自治体行政の矛盾を正し、改革を推進するためには、現在の仕組みが滝沢村の将来にとってふさわしいものかどうか、職員一人ひとりが気づくことなしには始まらない。つまり、職員の意識が変わらなければ役場も変わらない。


意識を変えるには村長自らリーダーシップを発揮し、火中に飛び込んで栗を拾う決意が必要である。意識改革に向けた柳村の取り組みはこうして始まった。


34頁・まで

第2章 職員三〇〇人のお役所意識を壊す・41頁・平成26年11月16日・日本では、財団法人経済生産性本部が主体となり、1995年12月に「日本経営品質賞」を創設。1997年に第一回の受賞企業を発表している。

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2014/11/261119-2-261116-02ba.html

労働運動と「資本論」から学んだ組織戦術・34頁・


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