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2015年8月 7日 (金)

・・・知恵泉・山田方谷 備中松山藩の家老、山田方谷(ほうこく)は、日本の優れた思想家でもあり、実務家として偉業をなした人物です。勘定奉行の折りには、借金に苦しんでいた藩の財政再建に取り組み、新産業政策、藩札刷新などにより財政改革を成功させ、7年で10万両(現在の約600億円)もの借金を10万両の蓄財に変えるほどの手腕だったといいます。

引用


2015年8月 7日 (金)takita.bangumi,番組表http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2015/08/takitabangumi-cfac.html

2015,8,9、


歴史的偉人に学ぶ経営学 山田方谷編・

山田方谷 備中松山藩の家老、山田方谷(ほうこく)は、日本の優れた思想家でもあり、実務家として偉業をなした人物です。勘定奉行の折りには、借金に苦しんでいた藩の財政再建に取り組み、新産業政策、藩札刷新などにより財政改革を成功させ、7年で10万両(現在の約600億円)もの借金を10万両の蓄財に変えるほどの手腕だったといいます。

 彼は14歳で母を、15歳で父を亡くし、遺された弟たちを養うため、農業と菜種油の製造販売という家業に努めながら学業にも励み、篤学の名声を高めます。25歳で名字帯刀を許されると、藩校『有終館』会頭(教授)に就任。藩主・板倉勝静(かつきよ)の教育係となって指導者として台頭し、『閑谷学校』を再建します。明治時代には大久保利通からの入閣の誘いを断ってまで私塾を設けるなど、教育に心血を注ぎました。

方谷の基本思想は「武士も農民も慈しみ愛情をもって育て、国民全体を富裕にする」「領民を富ませることが国を富ませ活力を生む」という“士民撫育”。これは心理学で存在承認や成長承認を意味し、領民に関心と愛情をもって成長を手助けし認めることで、内に秘めた力を引き出すのです。リーダーシップは組織とメンバーの夢づくりや観察、承認をすることであり、共感を導きながら相互に啓発し合い、挑戦する場をつくって皆の力を引き出すことと言えます。そんな士民撫育は上杉鷹山公『伝国の辞』の“民のために君主がいる”に通じる思想で、民が富むことを続ければ最終的に国が富むという主民思想です。

また1855年の上申書『撫育の急務上申』によると「藩主の天職は、藩士並びに百姓町人たちを撫育することにあります。まず急務とするところは、藩士の借り上米を戻すこと、農民の年貢を減らすこと、町人には金融の便宜を図り公益を盛んにすること、この3ヵ条であります」と述べています。方谷は民政刷新政策によって国民の生活を安定させ、産業振興政策を行い国民全体の生活を向上させました。

彼の基本姿勢は“至誠惻怛(しせいそくだつ)”と言い「真心(至誠)と悼み悲しむ心(惻怛)があれば優しく(仁)なれる。目上には誠を尽くし、目下には慈しみをもって接する。このような心の持ち方をすれば、物事をうまく運ぶことができる。この気持ちで生きることが人としての基本であり、正しい道である」としています。そんな方谷の下には多くの人が集まりました。のちに長岡藩家老となり、戊辰戦争で新政府軍と決然と戦った河井継之助もそのひとり。彼は佐久間象山などにも学びましたが、備中松山藩で生涯の師・方谷と出会います。はじめこそ農民出身の方谷に“安五郎”との通称で手紙を書くなど尊大な態度をとった継之助ですが、方谷の言行一致した振る舞いと藩政改革の成果を見てすぐに態度をあらため、深く心酔します。死の間際には「山田先生に伝えてください。継之助はいまのいままで先生の教えを守ってきました」と伝言を頼んだほどです。

一方、軍事では日本初の農兵隊である『里正隊』を15年かけて西洋の近代的兵器で武装させ、方谷自ら洋式訓練を施し当時の日本最強の軍隊に育て上げました。のちに明治維新の原動力となった高杉晋作の『奇兵隊』は、これを参考にしたものです。戊辰戦争時は朝敵とされた松山藩ですが里正隊の強さが恐れられ、なかなか手が出せなかったと言われています。ところが方谷は民の安全を願い、主戦論を抑えて無血開城を実現しました。

 

そんな彼の生きざまからは、理詰めだがたくましさを併せ持ち、至誠かつ慈しむ心を基本とした士民撫育によるリーダーの姿を学ぶことができるのではないでしょうか。

佐藤敦

http://worldjc.com/6445/

9:55 2015/08/07

 

 備中松山藩 山田方谷   (1805年~1877年)

(1)      山田方谷とは、どのような人物か。「よく知られていること」を紹介すると

①備中松山藩の人である。陽明学者。現在の岡山県高梁市の農家の出身であった。

②    産業を興し、備中松山藩を改革した。

③    信用のなくなった藩札を、買い上げ、領民の見ている川原で、大量の藩札を焼却した。その金額12億円分。

④ 山田方谷の長瀬塾(岡山県高梁市)に駅ができる時、地元住民が嘆願し、昭和3年 鉄道省を説得して・・初めて人名の駅ができた。

⑤ 幕末の天才で、「備中松山藩財政を改革し、借金は10万両を返済し、余財10万両を蓄財した。」

⑥ 大久保利通から大蔵大臣をたびたび要請されたが断り続けた。

⑦ 長岡藩 河井継之助も学びにきた。

⑧ 方谷の信念「政(まつりごと)でもっとも大事なものは、民・百姓である。」

(2)備中松山藩の状況

① 山田方谷は、今の岡山県高梁市、幕末には、備中松山藩の財政責任者になったが、その備中松山藩は表高5万石ながら実質2万石たらずで、藩は返す当てもなく借金を重ねていた。

 ② 大阪国税局 野島透氏(山田方谷の研究家 財政のプロ)

 著書 「山田方谷に学ぶ財政改革」  備中松山藩の当時の財政状況

収入 支出 年貢米 22,000両 江戸表・松山役所費用 14,000両 その他収入 20,000両 家中扶持米  8,000両 借入金など別途

 33,800両 借金利息 13,000両  役用金 13,000両

武備一切金 10,000両 異国船武備臨時金  5,000両 救米・荒地引米等  3,200両  道中往来費用  3,000両 その他費用6,600両 合計 75,800両 合   計 75,800両

  ③借金は、10万両に膨れ上がっていた。

(3)山田方谷の略歴

① 山田方谷は、幼いころから学問に秀でていた。29歳のとき、江戸に遊学、佐藤一斎の塾に入り、ライバル「佐久間象山」と毎日激論を交わしていた。常に山田方谷が論破していたと伝えられている。

② 32歳で江戸から戻った方谷は、藩校「有終館」の学頭に就任した。

以後45歳まで、藩主・藩士の跡継ぎの教育を行うなど、学者として成果を上げていた。

(4)備中松山藩改革断行

① その方谷に、大きな転機が訪れた。嘉永2年 藩主の交代によって、養子である板倉勝静が藩主になった。勝静公から元締役に就任を要請され、ついに就任した。

そして、破綻寸前の備中松山藩の改革に乗り出した。

② 「義」に生き、義が発揮されるなら利益は後からついてくる。理財論を表し、それを実践することで、改革を成し遂げた。

③ 最初に取り組んだのが、負債整理でした。 嘉永3年(1850年)春、大阪に向かった。これまでの備中松山藩の財政状況を説明し、借金10万両の猶予を申し入れた。

「わが藩は、表高5万石であるが、実際は2万石にもみたない。このようなことを表ざたにすることはないのだが、この場は隠し遂せたとしても、借金が返済できなかったなら、信義にも劣る。


借金は必ず返済する。踏み倒すつもりは毛頭ござらん。伏してお願い申す。その手立てだが、米に頼らず、産業を興せば必ず借金は返せる。」


大阪商人は、示した再建計画(産業振興策)が緻密で、商人たちの心を動かした。そして、利子の免除、50年の借金棚上げを承認した。

「産業振興策」その内容は、備中にある砂鉄を使って、当時の人口の80%を占める農家を相手にした農具の商品開発である。備中鍬の誕生であった。備中鍬は、3本の大きなつめを持ったホークのような鍬で、従来の鍬に比べて、土を掘り返すのに適した便利な鍬である。従来品に比べて作業効率がよい備中鍬の生産は、借金を返済できる大ヒット商品となった。

「政で大切なことは、民を慈しみ、育てることである。それは、大きな力となる。厳しい節約や倹約だけでは、民は萎縮してしまう。」農家出身ということもあり、農家の気持ちがわかった為政者であった。また、自ら開墾を行い、農産物の特産品づくりに精を出した。

タバコ、茶、こうぞ、そうめん、菓子、高級和紙など、その特産品に「備中」のネーミングで売り出した。ブランド品の誕生です。

販売方法についても、山間の小さな藩が外国船を購入し、江戸に物資を運び、板倉江戸屋敷で直接販売する方法を確立した。西国の藩は、産物を大阪に卸すのが常識であった。

方谷は、商品を江戸に持っていった。江戸での直接販売に目をつけた。中間マージンを排除し、安いよい品を直接消費者に販売した。それによって利益を上げた。

 

いまのアンテナショップの開設である。

また、備中松山藩内に「撫育局」を設置し生産・流通・販売を藩の直営とした。商業が低く見られていたこの時代、藩そのものを会社組織に変えた。

S氏のコメント「現在の官僚が言っていることは、絶望悲観論であり、有ることを固定して、ずっと先を考えると、必ず財政は破綻する。

消費税はうんと上げないといけない。年金は払えなくなるし。というような確定的絶望悲観論というのが今非常にはやっている。

 

山田方谷の時代の備中松山藩もそのまま ずーと 延長していくと「年貢はいくら入る。利子はいくら払わないといけない。」というような「現状の延長」で考えると絶望的であるが、山田方谷は、どこかに売るものがある。流通機構を考える。借金をしているところを説得する。

そのような、いろんな方策を考えていく、健全な楽観論は、現在の官僚が学ばないといけない。あらゆる方策を考えて、健全化していくところに学ぶべき点がある。

④ その後、藩札の信用回復に手をつける。

商品の売り上げの資金があったので、藩札を通常の価格で交換した。その、回収した藩札700貫いまなら12億円という藩札を、河原で焼却した。そのことで、藩札の信用回復、交換ができる量だけ藩札の発行を実施した。新しい藩札は、一気に流通し、経済の混乱が収束した。

K氏のコメント・方谷は、計画を立てて、長期ビジョンを持って、パフォーマンスをした。ビジョンがないと、闇雲にパニックをあおるだけになる。

⑤ 農民からの取立てを減らし、商人への税を増やす一方、武士の俸禄を減らし節約を命じた。松山藩の藩士たちの反感を買うこともしばしばであった。

    「山だし(山田氏)が    何のお役に立つものか

    子(へ)のたまわくような・元締    お勝手に

    孔子孟子を引き入れて尚このうえにカラ(唐)にするのか」

武士たちをさらに怒らせたのは、辺境の地の開墾にあたらせたことで、たびたび命を狙われた。

また、方谷が賄賂をもらっているとのうわさが立ち、清廉潔白を示すために、方谷は、家計を第3者に任しガラス張りにし公開した。

「藩政改革で最も重要なことはなにか。」の問いに方谷曰く

「義である。おきてや約束を必ず守ることも義。この後、どのような国づくりをするのかを明らかにすることも義の1つである。財貨を求めることは、利益つまり利であって義ではない。倹約、倹約というがただの倹約では意味がありません。義あっての倹約でなければならない。」

 

方谷の理財論では、その義について論じられている。

⑥ 方谷は、軍事面でも先進的であった。

農民で組織する「里正隊」をつくり、その装備は、イギリスの最新式の銃であった。西洋の力を認め、藩政改革に積極的に組み入れた。教練についても、西洋式を取り入れ軍事教練を実施した。のち、長州藩の奇兵隊のモデルになった。

特産物の収入を元に、備中松山藩は20万石の力を持つとまで言われた。

⑦ 安政元年 備中松山藩の総理大臣にあたる「参政」に就任した。

軍事、教育の改革を行った。画期的なのは、農民、商人などの民衆の教育に力を入れた。 家塾13、寺子屋62は、近隣の大藩の数を上回った。そして、その身分に関係なく、優秀な生徒は、役人に抜擢していった。

⑧ 方谷は、大きなひょうたんを常に持って歩いた。妻には逃げられ、貧しい生活をしていた。また、久坂玄瑞、桂小五郎など勤皇の志士たちとも手紙のやり取りがあった。

備中松山まで、教えを受けにきた、越後長岡藩の河井継之助は、戊辰戦争で負傷して亡くなるとき、次のような言葉を残した。

「備中松山に行くことがあれば方谷先生に伝えてくれ、生涯先生の教えを守ったと」明治になってから、河井継之助の慰霊碑の碑文を方谷に依頼が来た。

方谷は、断り次の文を送った。

「碑文(いしぶみ)を書くも はずかし 死に後れ」弟子継之助の男を貫いた者に対する方谷流の言葉であった。一方、備中松山藩は、無血開城した。明治になって、大佐町に居を移し、塾を開き多くの人材を育てた。

明治10年6月 享年73歳

幕末活躍した山田方谷も、度重なる明治新政府の大臣就任要請を断り、ついに、中央に出て行くことはなかった。

そのため、一部の研究者を除いて忘れ去られていった。

150年を経過して、再び、山田方谷の手法を学ぼうとする多くの人が出てきている。 「まとめ」

 

山田方谷は、目先のことにとらわれずにあるべき目指すべき姿を明らかにして、改革を進めた。人々の信頼を得ることこそは、やがては経済発展につながるとして、信、義を最も大切にした。方谷は、現在でも多くに人々に尊敬され親しまれ続けているのは、方谷自らが、生涯に渡って義の姿勢を貫いたからであった。

幕末という激動に時代を駆け抜けた「山田方谷」

その人物の精神や生き方は、今不況に苦しむ日本再生の知恵を教えてくれている気がする。

吉備の国HP     特集に戻る

http://www2e.biglobe.ne.jp/~fujimoto/taka/yamada.htm

吉備の国探訪

http://www2e.biglobe.ne.jp/~fujimoto/index.html

9:57 2015/08/07

 

 

 

山田方谷に学ぶ改革成功の鍵 単行本  – 2009/5 野島 透   (著) 野島/透

 昭和36年(1961)生まれ。山田方谷研究家。東京大学卒業後、大蔵省(現財務省)に入省。大阪国税局課税第一部長・査察部長、内閣府企画官(経済財政運営担当)、財務省大臣官房文書課情報公開・個人情報保護室長兼業務企画室長、内閣府参事官(公共サービス改革推進室)等を歴任。現在は、預金保険機構審議役。祖父が野島家の養子となったため野島姓であるが、山田方谷六代目の直系子孫でもある(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) 単行本: 138ページ出版社: 明徳出版社 (2009/05)発売日: 2009/05

目次

1 問題意識

2 山田方谷とは

3 方谷の基本的な考え方

4 七大政策

5 方谷の改革が成功した理由とその成果

6 日本版「陽明学」

7 結論と展望政治家えの苦言

今の政治家の読んでほしい。国家・国民 為の政治 自分の身の切る覚悟が欠けている。

9:09 2015/08/07

 

山田方谷のことば―素読用 (サムライスピリット) 単行本  – 2007/7

 

山田方谷に学ぶ会 (編集) 山田方谷の言葉の本です。

単行本: 69ページ出版社: 登龍館 (2007/07)発売日: 2007/07

目次

事の外に立つ

義を明らかに

誠心

古人に求む

学びの道

家書を得たり

述懐

学問の道は

進修は

学業は〔ほか〕

混沌の時代にこそ

山田方谷(ほうこく)は、幕末、備中松山藩(岡山県高梁市)の財政再建を成し遂げた人物。最後の将軍徳川慶喜を補佐した老中首座・板倉勝静(かつきよ)の参謀であった。藩政改革者としては米沢藩主・上杉鷹山が有名だが、陽明学の思想を基に本格的な藩政改革を実行したのは山田方谷の右に出るものはいない。幕末の英傑、越後長岡藩・河井継之助が唯一師と仰いだのが方谷であった。最近、経営者や行政関係者の間でにわかにブームとなっている。

この本は、改革者であり教育者でありそして詩人であった方谷の言葉の中から、含蓄がありそして素読するのに極めて調子のよい言葉が撰された本である。

人生の指針となります!投稿者難波正治2014年5月10日

とても分かりやすく幼い子供から老年の大人まで全ての人の指針となる一冊です。値段も本当に手頃。私の定年祝いのお返しに若い社員たちに一冊づつ贈呈させていただきました。大勢の方に是非読んでいただきたい。総理大臣をはじめ、政治家や企業経営者のバイブルとなりますね。お勧めです。

是非、お手元に一冊!

様々な分野の方々にお読み頂きたいお勧めの本です。山田方谷以外のかたの名言も入っていてとても参考になりました。

方谷の生き様をみることができました。

方谷の教えをこれから参考に生きていきたい。幕末に優れた人が日本にいるとは嬉しくなります。

9:11 2015/08/07

 

入門 山田方谷―至誠の人 単行本  – 2007/6

山田方谷に学ぶ会 (著) 内容(「BOOK」データベースより)

 

この本では、方谷の生い立ち、学問・思想、藩政改革などの業績、教育者・詩人としての方谷、家庭、師や友人・弟子などについて、一問一答形式でできるだけ分かりやすく説明するように努めました。また、コーヒーブレイクとして、人間山田方谷の横顔やエピソードのほか、巻末には年表やゆかりの地のマップなども付け加えてみました。 単行本: 153ページ

出版社: 明徳出版社; 改訂増補版 (2007/06)発売日: 2007/06

目次

幼少年時代―方谷はどのように育ったのか

青年時代―方谷はどのように学んだのか

藩校学頭時代―方谷はどのように教えたのか

藩政改革時代―方谷はどのような改革をしたのか

幕政参与時代―方谷は藩主をどのように支えたのか

明治維新時代―方谷は藩の危機にどのように対応したのか晩年―方谷はどのような教育をしたのか方谷の漢詩

形式: 単行本

 

陽明学を知りたかったことと、西郷隆盛が愛読した言志四録の佐藤一斉の回りを探していたら、山田方谷という人に出会った。幕末の頃、備中松山藩の財政破綻を立て直し、思想家であり、誠を求めた人であり、さらに現実社会での改革に成功した人として優れた人であったことを知った。

この本は、表紙が少々安っぽく、お手軽な本かと思いきや、内容は充実している。簡潔にして、生涯、関連する人びと、思想、財政改革、教育等々、偏りなく書かれており、脚注も細かく付けられている。「山田方谷に学ぶ会」の面々が、まさに尊敬する人物を丁寧に描こうとする思いがこもった本である。薄めの本なので大変読みやすいが、内容は充実しており、最後にある年譜、参考資料もきちんとしている。リファレンス的にも良いし、山田方谷入門にもベストの本と思われる。歴史の素人としては、難しい読みの振り仮名もよく付いており、その点でもありがたかった。

大変おすすめ。

9:18 2015/08/07知恵泉・山田ホウコク・

 

 

 

 

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株式会社 サンエス

〒720-2124 広島県福山市神辺町川南1019-1

TEL

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株式会社サンエス 株式会社サンエス ユニフォーム事業部

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http://www.suns.co.jp/kuchoufuku/function.html

8:03 2015/08/06サンエス・


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