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2014年4月10日 (木)

里山資本主義・・・第3章 グローバル経済からの奴隷解放―費用と人手をかけた田舎の商売の成功・・


引用

里山資本主義

http://www.town.suo-oshima.lg.jp/

第3章 グローバル経済からの奴隷解放―費用と人手をかけた田舎の商売の成功・・

費用と人手をかけた田舎の商売の成功・・NHK広島取材班・井上泰介、夜久氏・155頁、14/4/7 11時20分33秒

過疎の町こそ21世紀のフロンティアになっている・

本書ではここまで、田舎に踏みとどまって、地域の資源を見出し、地域循環型の経済を生み出している人々を紹介してきた。ところが、時代の流れは今や逆転し、大企業を見限って、過疎の地域へ飛び込む若者たちが増えている。それも優秀な若者が、である。ここからは、そんな新たな潮流についてみていきたい。

そんな町の一つが山口県南東部、瀬戸内海に浮かぶ、周防大島だ。周防大島は、数ある瀬戸内海の島々で三番目に大きな島。全般的に山岳起伏の傾斜地で6百メートル級の山々が連なり、海岸に沿って多少の丘陵地が広がる程度で、大半を山地が占めている。

156頁、

その一方で、作物の生育にこれほど恵まれた環境はないのではないかとも思える温暖な気候を持っている。年間の日照時間は国内トップレベル、年間平均気温は15・5度。島では昔から、そんな傾斜地と温暖な気候を利用した柑橘類が盛んであった。瀬戸内の海は、いわば、日本の地中海である。

しかし、高度経済成長期、日本はこうした島々の活かし方を間違え、大量生産・大量消費のシステムに組み込もうとしてきた。国は1961年、農業生産の増大・合理化を目指して「農業基本法」を策定。みかんを、お金になる作物として、「選択的拡大」の対象に指定、大規模化を推奨した。それは、この島で長く続いてきた、少量多品種による自給自足的な農業を破壊、誰もがみかんを栽培するようになった。しかしみかんの需要は国が期待したほど伸びなかった。

そこに追い打ちをかけたのが、オレンジやグレープフルーツの輸入自由化。みかんの過剰生産が問題となり、農家はジュースや缶詰などの加工用に振り向けざるを得なくなっていった。しかし加工用のみかんは生食用の10分の1以下の値段で買い叩かれ、みかん農家の多くが、経営を成り立たせることができなくなった。

結果は明白だった。島の産業に将来を見出せなくなった若者たちは、次々としまを後にしていったのだ。日当たりのよい急斜面を利用したみかん栽培は、畑をぐるりと回るだけでも多大な労力を伴う。若者がいなくなった段々畑は次々と荒地へと変わっていった。

157頁、そして、いつしか周防大島は、人口における65歳以上の割合を示す高齢化率が46・7%(2012年)。日本で最も高齢化率が高い自治体の一つとなったのである。

ところが、この10年余りでにわかに変化が見られるようになった。半世紀以上にわたって続いてきた社会増加数(転入者数から転出者数を引いたもの)の減少が、とうとう止まったのだ。もちろん、高齢化が進み、そもそも出て行く若者が減ったのも一つの要因であるが、近年、しまに移住する人が増えているというのである。

もともと周防大島に縁がなかった人がやってくるIターン、一旦島を出て行ったものの、年を経て戻ってくるUターンなど、形は様々だが、今、瀬戸内の島々が「里山資本主義」によって、若者たちにとってのフロンティアとして生まれ変わろうとしている。

158頁、

大手電力会社から「島のジャム屋」さんへ

これから紹介する松嶋匡史さんは、周防大島でも先進的な成功事例といっていいだろう。松嶋さんがこの過疎の島で挑戦しているのは、カフェを併設したジャム屋さん。「瀬戸内ジャムズガーデン」だ。

海に面した、フランスのおしゃれなカフェを連想させる建物と、床や柱に木をふんだんに利用した、暖かみのある内装。そして、カフェスペースには、木のテーブルを三つ。そこに座れば、大きな窓から目の前の瀬戸内海に島々がぽっこり浮かぶ、多島美を楽しむことができる。

いくらおしゃれとはいえ、山口市からも広島市からも離れたへんぴな場所に客は来るのだろうか、と週末に訪ねてみれば、目の前の駐車場は車でいっぱい。家族連れやカップルなど、たくさんのお客さんで賑わう。みんなのお目当ては、四季折々の手作りジャム。春はイチゴにサクランボ。夏はブルーベリー。秋はいちじく。そして冬はみかんやリンゴ。風味付けも、バニラ、シナモン、ラム、紅茶、チョコレートなどなど。レパートリーはなんと100種類以上。「あれもこれも」と好奇心を刺激されながら、オリジナルのジャムを味見し、買うことができる。

159頁、ほどよい甘さにほっこり。流れる時間はゆったり。子供も大人もみんなが笑顔になれる空間だ。

もともと京都出身の松嶋さん。2006年、勤めていた電力会社を辞めてIターン、東京から周防大島にやってきて店を開いた。

きっかけは2001年、新婚旅行で訪れたパリのジャム屋さんだった。妻の智秋さんがアクセサリーショップに入っているあいだの時間つぶしにふと隣にあったコンフィリュール(フランス語で「ジャム」専門店を覗いたところ、色とりどりの瓶入りジャムが並んでいた。

その美しさに取り憑かれたように見入ること一時間。とっくにアクセサリーを見終わり、呆れる智秋さんに、「お土産だから」と30個ほど買って帰った。帰国後、松嶋さんは暴挙に出る。なんと、そのほとんどの封を切り、自分で食べ比べをしてしまったのである。それで完全に火がついた。突然、「ジャム屋を始めたい」と言い出した。もちろん、智秋さんはあいた口がふさがらない。電力会社という最も安定しているはずの会社に勤めている人と結婚した途端、成功するかどうかも分からないジャム屋を開くといいうのだから。しかし、松嶋さんは諦めなかった。説得には三ヶ月を費やしたという。それで智秋さんもようやく折れた。

「当然、三ヶ月くらいはスルーしていましたよ。耳元で「ジャム、ジャム」とか言っていても、作ったことないし料理もしないし、何を言っているんだ、みたいな感じで。詐欺っていうか、ただの妄想っていうか、独り言っていうか、そういうふうに受け止めていました」

160頁、

私たちと智秋さんのやり取りを横で聞いていた松嶋さん、にやりと笑った。「まさしく妄想といえば妄想ですね。でも、そういうところから革命は起こるんですよ」

ジャムの作り方を一から独学する傍ら、次に関門となったのが店の立地だった。当初はおしゃれなお店を経営するなら、当然、消費地に近い都市部がいいと思っていた。それこそ、出身地・京都なら観光客のお土産になると。ところが、話を聞きつけた妻の父親であり、周防大島で店を開いてもらいないか」。先に述べた通り、周防大島は、若者の島外への流出に苦しみ、町としても若い力を必要をしていたのである。

妻の智秋さんは、夫は流石に引き受けないだろうと考えていた。ところが、松嶋さんはあっさり引き受けた。決め手になったのが、原料となる果樹がすぐ身近にあることだった。生産地のど真ん中でジャム作りをしてみるのも悪くないと思ったのである。

そこから、松嶋さんの逆転の発想が次々と生まれた。まず、店を建てる場所探し。松嶋さんが選んだのは、便利な国道沿いではなく、静かな海辺だった。これには、場所探しに付き合った義父も驚いた。「ここにずっと住んでいる人間にとっては、海があって当たり前だし、他の場所でも海は見えるわけですからね。ここが特別の場所だと誰も思わないんです」

161頁、

自分も地域も利益を上げるジャム作り・・・

松嶋さんはジャムを買ってくれたお客さんに、あるリーフレットを手渡すことにしている。そこには、「過疎高齢化が進む島で小さなジャム屋が思うこと」と題して松嶋さんの思いが綴られている。

・・・今の時代に求められているのは、地域の価値に気付き、その地域に根ざしt活動を展開することではないでしょうかその土地でできた農作物を使い、田舎では田舎でしかできない事業を行うことが理想のスタイルであると思います。それが地域を復興させ、お年寄りを元気づけ、若者を呼び戻す切り札になるはずです。土地と作り手の魂が感じられるジャムづくり。これこそが私たちの目指しているジャム作りなのです。

162頁、

まさに、大量生産・大量消費すステムとの決別宣言である。経済成長のために、地域を安価な労働力や安価な労働力や安価な原材料の供給地と見るのではなく、地域に利益が還元される形で物作りを行う。ただし、そのために自分たちが犠牲になる必要もない。自分たちも、ちゃんと利益をあげる。その仕組みを松嶋さんは一生懸命考えた。

まず、松嶋さんはしまを回りながら、生産者と交流を深めた。都会にいては絶対にわからない、ジャムづくりのヒントを農家から直接仕入れるためである。

そんな松嶋さんの知恵袋の一人となっているのが、祖父の代からみかんを作り続けている山本幸三さん。10月の早生から翌5月以降に旬を迎える夏津海という品種まで、10種類以上のみかんを作り分けるだけでなく、みかん以外にもレモンやネーブル、ポンカンなど、多様な柑橘類を手がける、柑橘作りの名人である。山本さんの生産技術を学びたいと、本場・ヨーロッパからも視察がやってくるほどだ。

松嶋さんはそんな山本さんたち、地元の柑橘農家おの会話の中から、新しいジャムのアイディアを次々と得ていった。その一つが青みかんジャム。原料となるのは、生では酸っぱくてとても食べられない、熟す前の青みかんだ。虫を寄せ付けないほどの強烈な香りがあることを教えられ、新しいジャムが生まれた。

163頁、平成26年4月8日

ヒントをくれるのは柑橘農家ばかりではない。周防大島には、東和金時という品種のサツマイモが昔からひっそりと栽培されていることを知った。有名な徳島の「鳴門金時」と同じ品種でありながら、それほどの知名度を得られなかった、隠れた特産だった。

松嶋さんは、これの何とかジャムにできないか、試行錯誤を重ねた。一番の難問は、サツマイモはジャムにすると、出来立ては美味しいのだが、覚めるとイマイチということだった。そこで逆転の発想。「焼きジャム」という新たなジャンルを開発した。パンを焼いてからジャムを塗るのではなく、ジャムを塗ってからジャムごとパンを焼いて食べるのだ。すると、熱々のさつまいもの甘い香りが口いっぱいに広がる。冬の定番のジャムとなった。

「都市部でジャムを作ろうとすると、こういういろいろなアイディアは生まれてこない。地元の方と接するからこそできるジャム作り、ビジネスなんだと思います」

そんな風に自らの取り組みを評価する松嶋さん。もちろん、その探究心と発想力があってこその賜物であるのは間違いない。

一方の山本さんたち果樹農家にとって、作物に新たな価値を見出す松嶋さんはありがたい存在となった。

「我々は生産者ですから、加工まで一歩踏み込むのは難しいところがあった。島にいる多くの農家、みんなそうですよ。生産は得意だけど加工・販売は苦手。だから、ノウハウを持っている人がしまに来てくれたのは強みだと思います」

164頁、

・・・売れる秘密は「原料を高く買う」「人手をかける」・・・

どうすれば、農家に利益を還元することができるのか。松嶋さんは、原料となる果物高い価格で買い取ることにした。みかんも、1キロ100円以上で買っている。これまで大きさや形が規格外の加工用のみかんは、そのほとんどがジュースの原料として1キロ10円と、安く買い叩かれてきた。だから、100円という数字は、山本さんにとっても驚きだった。「社会では原料は安いものだという概念がありますから、10円とか、そのぐらいしか支払わない。松嶋さんが1キロ100円で原料を買うのは、非常に高い単価。

でもそれは、私たちがいろんなものをかけて作った時、まさに、それぐらい欲しいな、という単価でした」

そうして仕入れた原材料からジャム作りも松嶋さん流だ。まず、松嶋さんは、均一な味を求めない。一瓶一瓶味や風味が違って当然なのだ。それが、数え切れないほどの試行錯誤の結果たどり着いた決論だ。

ジャム作りでは、徹底的に手作りにこだわっている。機械に頼らず、人手をかけた方が消費者にアピールできることももちろんあるが、そのほうが地元の雇用につながるのだ。

165頁、

ジャム工房を覗くと、地元の農家の奥さんたちが、原料を切ったり、皮をむいたり、煮込んだり、楽しそうにジャムを作っている。若者の姿も見える。周防大島にIターンしてきたが、すぐには収入が安定しないため、アルバイトしているのだという。そうした人たちが22人も働いている。

もちろん、原材料や人件費が上がれば、商品の値段は高くなる。松嶋さんが販売するジャムの値段は、155gの瓶入りで700円前後。大手メーカーの大量生産品に比べると格段に高い。しかし、少量多品種、画一化されていない個性豊かな味。そして何より、周防大島という素晴らしい環境で顔の見える人たちによって作られていることが、飛ぶように売れ続ける秘密となっている。

「我々にできることはなんだろう、とこの島に来てから考えるようになりました。単純に自分のところの利益を最大化するのがいい話でなくて、地域全体が最適化されることで、自分たちにも利益が回ってくるのです。だからこそ、地域をまず改善していく取り組みをしたいと考えています」

166頁、

・・・しまを目指す若者が増えている・・・

周防大島で活躍する若者は、松嶋さんだけではない。20代から40代の若い力が、次から次へと島の眠れる宝を掘り起こし、新たなビジネスに結びつけている。

福岡で調理師をしていた20代の笠原さんは、周防大島へ戻った後、果樹の多い島では良質の蜂蜜が採れると考え、養蜂業へ転身した。養蜂から瓶詰めまで家族だけで行い、道の駅など、目の届く範囲だけで販売する徹底した小規模経営の方針をとり、利益を順調に伸ばしている。

40代の山崎さんは18歳の時に周防大島を離れ、広島・フランス・東京でリュリ人の腕を磨いた後、Uターン。島内外で常に満員御礼の人気レストランを複数経営している。皮がと食べられる無農薬のみかんを使ったみかん鍋も開発。しまの新たな特産に育てようとしている。

まだまだ、いる。30代の新村さんは、広島の食品加工会社で働いていたが、結婚を機に島に帰り、実家の水産加工会社を継ぐ。2010年、松嶋さんに出会い、今まではいりこ(煮干し)に適さないと廃棄してきた、大きすぎるイワシをオイルサーディンにするアイディアを得て、販売を開始した。海外産のオイルサーディンが多い中、純国産のオイルサーディンはじわじわと人気が広がり、生産が追いつかない状態である。

167頁、

都会から過疎地へ。そうした動きは全国に広がっている、と見るのが東京・渋谷に本拠を置き、長年、若者の起業をサポートしてきたNPO法人「ETIC」である。

ETIC.では、年に数回、「日本全国!地域仕掛け人市」を開いてきた。地域に入って起業などにチャレンジしたいという若者と、受け入れ団体のマッチングイベントである。2011年秋、私たちが取材に訪れた時、都内の会場には220人が詰めかけ、活気に溢れていた。ほとんどが、就職活動中の大学生や転職を考える若者だった。

「北海道から来ました!」。若者たちを前に北海道から沖縄まで、全国からやってきた22団体の、UターンやIターンで起業した先輩たちが地域で働くことの魅力を熱弁する。

なかでも、離島からやってきた団体が暑い。「横溝正史の「獄門島」のモデルになった島です」と紹介しているのは、岡山県笠岡諸島にある六島。町長が主導し、トヨタやソニーで働いていた若者たちが協力して、今やすっかり地域復活の象徴となっている島根県、隠岐諸島の海士町も来ていた。島は本土から離れている分、地域社会も完結していて、里山資本主義を実践するのにはちょうどいい環境なのだ。

周防大島からは、ジャムズガーデンの松嶋さんとその盟友・大野さんが駆けつけていた。大野さんは、Uターン組。広島の高校、大阪の大学、そして東京で社会人と11年間島を離れたあと、地元に戻り、地域興しのリーダーとして活躍してきた。

168頁、

周防大島のブースで、二人からジャム屋の成功体験を聞いた、二人組の大学二年の女性は口々に褒め称えていた。

「ああいう島があること自体知らなくて、すごい素敵だなと思いました。島では社会が出来ていつというか、外に頼らずに自分たちでやるところがいいですね。いいな、行きたいな!と思いました」

「自分がやりたいことができそうな雰囲気ですね。皆さんサラリーマンのように疲れてなくて、楽しそうに話をされていますから。自分、自分じゃなくて、地域、地域って思ったら、もっとやれることがあるんじゃないかな」

ETIC,代表理事の宮城さんは、トレンドを次のようにう分析する。

「ここ数年、非常に動きが目立ってきています。どの企業でも欲しいような人材が、平気で会社を辞めて地域に入ることがあちこちで起こり始めているんです。立派ないい会社に勤めて、高い給料をいただいているような人が、年収が半分、三分の一になることもいとわず、地域に戻りたい、地域で仕事をしたいと。このなかには、そんな人がいらっしゃる」

このNPOの法人が、企業を考える若者を対象に行った意識調査では、いま、若者たちの五人に一人が、農業や漁業といった「一次産業」に挑戦したいと考えているという。かつて、企業の花形だった「IT産業」の二倍以上である。

169頁、

「物質的豊かさや、情報という面での豊かさに対して、飽和感があるのだろうと思います。五感でリアリティを感じられるといった面白みを求めているのではないでしょうか。リアリティの最たるものは、人間の絆であるとか、人情みたいなものでしょう。また、自然と触れ合って仕事をしていくことも、非常に魅力なのだと思います」

・・・「ニューノーマル」が時代を変える・・・

14/4/10 6時44分6秒・

172頁、

・・・田舎には田舎の発展の仕方がある!・・・

過疎と高齢化が進んだ地域。そこにはアイディアさえあれば、とっておきの宝物がまだまだ眠っている。リスクも少ない。土地代や人件費など、元手もほとんどかからないため、スタートから多額の借金を抱える必要もなければ、もちろん、生産過剰による在庫を心配する必要もないのだから。そしてなにより、若者が帰ってきた。それだけで地域の人たちから感謝される。「地域」は今や、若者たちを惹きつける新たな就職先である。

しかし、いくら若者が過疎地を目指すとなっても、そこは見知らぬ土地。困難も多い。田舎にはよそ者に対し警戒心を持つ風潮も残っていて、残念ながら、ときにトラブルに発展することもある。

173頁、

周防大島では、受け入れ態勢のさらなる拡充を目指す動きが次々に立ち上がっている。松嶋さんたちは、Iターン、Uターンの若者たちによるネットワークを結成。「島暮らす」と名付けた。まず、島の情報を起業希望者に提供し、便宜を図る。時には、地元の人との仲立ちも行う。さらに、既に成功している会社へのインターン事業を行ったり、起業してからの安定収入のためにアルバイト先を提供したりする。先人たちが切り開いた道。それに続く人たちが同じ様な壁にぶち当たることなく、スムーズに島に定着して欲しい。こうした活動には、松嶋さんたちのそんな願いが込められている。

こうした若者たちの動きに、自治体も答えた。2011年4月、若い起業家に事業用のスペースを貸し出す、いわゆるチャレンジショップを始めた。都市部の商店街などではよく見られるようになった取り組みだが、過疎の島にあるのは珍しい。2~3坪という少々手狭な敷地ながら、賃料は月一万円。しかも、年間28万人が訪れる「道の駅」の目の前にあるだけあって、集客力は抜群。蜂蜜を販売する笠原さんも、ここに店を出し、リピーターを増やしている。

周防大島町長の椎木さんにも話を聞いた。

174頁、

「私は行政のなかにいる人間ですが、一番不足しているのは、やる気があってもアイディアが薄い点。自分でも反省しているのですが、外のまったく違うタイプの方々のアイディアをいただけたら、もっと面白いものができるのではないかと期待しています」

2012年4月からは、島内のあちこちに増えていた空き家を、移住を希望する人に破格の家賃で貸し出す取り組みも始めている。これも各地で始まっている取り組みではあるが、多くは行政が単独で行っているケースが多く、若者がなかなか情報にアクセスしづらい。ところが、周防大島では、「島くらす」と連携し、情報共有を図ることで効率よく借りてが見つけられる。

加速する周防大島の取り組み。椎木町長は、かつて、島でも大企業誘致などに取り組み、失敗した経験を反省する。

「都会と同じように考えて発展させるのは無理があると思うんですね。私たち田舎は、田舎のような発展、地域にあった幸せ度、発展を考えなければいけないと思います」

私たちが松嶋さんたちを取材した番組が放送されたのは、2012年3月。放送後、松嶋さんの元には、その理念に感銘を受けた人々による訪問や便りが相次いだ。

山口県岩国市から来たという50代の男性は、店に入ってくるなり「会いたかったよ!ありがとう!」と松嶋さんに握手を求めたという。聞けば、東京に就職した息子が都会暮らしや仕事に馴染めず、田舎に帰ってきたものの「以下か暮らしは面白くない」と、就職活動もせず閉じこもっていた。

175頁、

それがたまたま見た番組に感動し、何回も繰り返して見ているうちに、ついには田舎には田舎の素晴らしさがあり、田舎で頑張ることの意義を感じたのだという。就職活動にも前向きに取り組むようになったそうだ。

他にも、2年ほど鬱病で休職していた女性から、放送を見て、再び就職活動を始める決心がついたという頼りが来るなど、松嶋さん自身も勇気づけられるような話が続々と届けられている。

・・・地域の赤字は「エネルギー」と「モノ」の購入代金・・・

平成26年4月10日 木曜日

 






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