« 大勝老人クラブ全体の人数、と大勝全図・2023龍郷町新首長に聞く・・・犬と鬼-知られざる日本の肖像・アレックス・カー 怒りと悲しみを込めて現代日本の病理を暴く。破壊される自然環境、ちぐはぐな都市建築、日本の魂を崩壊させる官僚政治。慢性的に進行する日本の「文化の病」を、丹念に掘り起こし亡国予算―闇に消えた「特別会計」官僚のポケットマネーと化した、特別会計にメスを! 2009・4・28 ・北沢 栄著・・・・・・ だれも知らない日本国の裏帳簿―国を滅ぼす利権財政の実態! 石井 紘基 (著)そのほかいろいろ・ | メイン | 奇跡の村 地方は「人」で再生する 相川 俊英 (著) 少子化対策に目覚しい成果をあげて全国の自治体関係者から「奇跡の村」と呼ばれている長野県下條村など、独自の移住促進策で「消滅論」に抗う各地の山村を取材した、希望のルポルタージュ。・国策に異を唱える・30頁・地域重視で行った「常識外れの決断」・34頁・「意識改革」・38頁・・組合の要求書に「ノー」・ »

2016年12月24日 (土)

奇跡の村 地方は「人」で再生する (第1章 奇跡の村「下條村」・13頁・・小さな村の政権交代・21頁・「カリスマ村長」・24頁・・役場の実態に驚愕・28頁・ 相川 俊英 (著) 少子化対策に目覚しい成果をあげて全国の自治体関係者から「奇跡の村」と呼ばれている長野県下條村など、独自の移住促進策で「消滅論」に抗う各地の山村を取材した、希望のルポルタージュ。 ・・反骨の市町村 国に頼るからバカを見る 単行本


奇跡の村 地方は「人」で再生する (集英社新書) 新書–2015年10月16日 相川 俊英 (著) 少子化対策に目覚しい成果をあげて全国の自治体関係者から「奇跡の村」と呼ばれている長野県下條村など、独自の移住促進策で「消滅論」に抗う各地の山村を取材した、希望のルポルタージュ。


2016年12月29日 (木)・・長野県最南端、下伊那郡のほぼ中央に位置する下條村は、人口わずか3,963人(2,015年6月現在)の小さな山村である。村の面積は37・66平方キロメートルあるが、そのうち約70%を山林が占め、平坦地は猫の額ほどしかない。宅地面積は3%ほどで、34の集落が標高332㍍から828㍍の間に点在している。・奇跡の村・・共助の慣行が蘇る・54頁・

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4:57 2016/12/29


少子高齢化と人口減少により「地方消滅」が叫ばれて久しい。そんな中、長野県下伊那郡下條村は、全国の自治体関係者から「奇跡の村」と呼ばれている。少子化対策に目覚ましい成果をあげてきたからだ。「陸の孤島」と揶揄される人口約四〇〇〇人の山村が、一九九八~二〇〇二年の五年間平均出生率で長野県トップを記録。現在でも、全国平均一・四三人を上回る一・八八人(二〇一三年)と、トップクラスの高い出生率を誇る。その秘密はどこにあるのか?この下條村を中心に、独自の移住促進策で「消滅論」に抗う各地の山村を取材。この先の社会に光を点す、希望のルポルタージュである。

新書: 224ページ出版社: 集英社 (2015/10/16)言語: 日本語


発売日: 2015/10/16


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2016年12月26日 (月)奇跡の村 地方は「人」で再生する (集英社新書) 新書–2015年10月16日 相川 俊英 (著) 少子化対策に目覚しい成果をあげて全国の自治体関係者から「奇跡の村」と呼ばれている長野県下條村など、独自の移住促進策で「消滅論」に抗う各地の山村を取材した、希望のルポルタージュ。・国策に異を唱える・30頁・

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/12/20151016-120e.html

8:06 2016/12/26


2016年12月27日 (火)・・奇跡の村 地方は「人」で再生する (集英社新書) 新書–2015年10月16日 相川 俊英 (著) 少子化対策に目覚しい成果をあげて全国の自治体関係者から「奇跡の村」と呼ばれている長野県下條村など、独自の移住促進策で「消滅論」に抗う各地の山村を取材した、希望のルポルタージュ。・民間企業で研修」・42頁・

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/12/20151016-55c3.html

9:57 2016/12/27


目次

第1章 奇跡の村「下條村」・13頁・


「下條村・序論」・14・・全国有数の高い出生率・


16/12/24 7時47分・

長野県飯田市から国道151号線を南下し、人家のない山間部の一本道をひた走る。すれ違う車も後続車もほとんどない。阿智川に架けられた万歳大橋を渡りきると、左手に大きな看板が現れる。それも仲良く三つ並んでだ。そのうちの一つ、見慣れた男性の顔写真付き看板に「ようこそ下條村へ・峰竜太の故郷です」との文字が書かれている。ここから長野県下條村の玄関口であった。

長野県最南端、下伊那郡のほぼ中央に位置する下條村は、人口わずか3,963人(2,015年6月現在)の小さな山村である。村の面積は37・66平方キロメートルあるが、そのうち約70%を山林が占め、平坦地は猫の額ほどしかない。宅地面積は3%ほどで、34の集落が標高332㍍から828㍍の間に点在している。14・


15頁・傾斜地ばかりなので、農地も村の面積の約12%に過ぎない。かつては養蚕が盛んだったが、今は果樹やソバが特産と言える程度である。

また、山間部に広がる下條村は交通の便が悪く、「陸の孤島」と呼ばれていた。

2,008年4月、村の近くに三遠南信自動車道の天竜峡インターチェンジができて便利になったが、それでも辺境の地である事に変わりはない。

そんな下條村に大きな企業や事業所があるはずもなく、村の財政基盤は今も昔も極めて脆弱である。税収が乏しく、自治体の財政力の強弱を示す指標である財政力指数は0・22(2,013年度)と極めて低い。15・


16頁・つまり、下條村は様々な悪条件に苦しむ典型的な日本の山村の一つであった。

だが下條村は、日本のどこでも存在するような、ごく普通の自治体ではなかった。圧倒的に不利な条件下にある小規模自治体でありながら、村独自の活性化策を次々に実行視、目覚ましい成果を上げてきた。なかでも自治体関係者を唸らせたのが、少子化対策だった。子育て支援にいち早く取り組み、全国有数の高い出生率を誇るようになった。しかも、それを維持し続けている驚異の村なのだ。

下條村の合計特殊出生率(母数が小さいため、五年平均で算出)は、1,998年から2,002年の五年間が「1・97人」で、長野県下でトップとなった。ちなみに2,004年の全国平均は1・29だった。2,003年から07年は「2・04人」(市町村ごとのデータを取っていた国が2,002年から保健所管内ごとに変えたため、下條村が独自に試算)を記録し、2,007年の全国平均1・34人を大きく上回っている。2,008年から12年は「1・86人」とやや下げたが、2,013年単年では「1・88人」と持ち直している。全国トップクラスの高い出生率を誇る村である事は間違いない。16・


17頁・厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所が2,013年3月に公表した、2,040年時点での地域別将来推計人口(おおむね五年ごとに算出)でも、下條村の数値は異彩を放っていた。全国のほとんどの自治体が大幅な人口減少を推計された中で、小幅な減少率に留まったのだ。2,010年比でマイナス8・2%。辺境の山村という大きなハンディを背負っている事を感じさせない数値となっている。ちなみに、県庁所在地の長野市はマイナス20・9%、松本市はマイナス14%である。

こうした事から、人口減少に苦しむ自治体関係者などが、いつしか下條村を「奇跡の村」と呼ぶようになり、憧憬「1.憧憬(「しょうけい(憧憬)」の慣用読み〕 あこがれること。「 -の的」大辞林 第三版」のまなざしで見るようになった。そして、その秘訣を学んで自分たちの地域にも取り入れようと、列をなして行政視察に訪れるようになったのである。これは今に始まった話ではなく、10年以上前から続く現象である。

地方議員や行政職員、研究者と言った様々な人たちが、全国各地から「陸の孤島」と揶揄される山奥の小村に足を運んでいる。下條村によると、視察件数は2,003年4月から2,015年10月の間で、479件(予定も含む)にのぼる。

こうした行政視察の受け入れが、少ない職員で日常業務をこなす下條村にとって負担にならないわけがない。このため、下條村は視察の対応を週一日に限定し、さらに行政規模の異なる自治体からの視察申し込みはお断りするようになった。17・


18頁・町や村に限定し、市からの視察は受け付けない事にしたのである。


それでも、奇跡を起こした下條村の秘策や奇策、謎を解明したいという視察希望は後を絶たず、対応する村の職員のスケジュールはあっという間に埋まってしまうのだった。18・16/12/24 8時51分・



「下條村・序論」・14・・全国有数の高い出生率・

 ・合併を拒んだ「自立宣言」・18頁・


16/12/24 13時8分・

名誉村民でもあるタレント峰竜太の巨大看板による出迎えをうけ、さらに国道151号線を進む。小松原トンネルを抜け粒良脇トンネルを通過すると視界が水平に広がっている。下條村の中心部である。コンビニがある四つ角を右折し、道をやや上がると三階建ての下条村役場に到着する。

下条村役場を初めて訪れた人は皆「オヤッ」と思うに違いない。建物内に広がる景色が、一般的な役所のそれと異なるからだ。何よりも職員の姿があまりなく、大部屋は閑散としている。主だった職員らが行事や会議などで出払っているのかと思ってしまう。18・


19頁・下條村の職員数は37人(2,014年4月時点の正規職員数)で、人口1,000人当たりの一般行政職員数は7・90人となる。類似自治体の平均値が16・98人なので、半分の人員で業務をこなしている計算に成る。ピ-ク時(1,981年9の下條村の職員数は59人にのぼっていたという。

職員総数そのものが少ない上に、福祉課や教育委員会の一部が別の施設内に配置されているため、役場内で目にする職員は十数人ほど。それで、部屋がやけに広く見える事になる。役場と言えばたくさんの人が出入りするイメージがあるが、下条村役場は全く異なっている。19・


20頁・職員数が少ないだけでなく、組織も極めてシンプルだ。村長の下に副村長がいて、その下に三人の課長と一人の事務局長がいるだけ。総務課、振興課、福祉課、教育委員会の四課制である。

職員が執務するスペースには、靴を脱いでスリッパに履き替えて上がる。村長室はなく、一階の大部屋の奥に村長のデスクが置かれている。遮るものがないので、執務ぶりは外から丸見えである。役場の二階はほとんど使われておらず、電気を落としたままなので昼間も薄暗い。


人口4,000人ほどの下條村は、小さいながらも長い歴史を持つ自治体だ。1,889年に睦沢村と陽澤村が合併し、下條村となった。以来、単独の村として生き続け、2,014年に125周年を迎えている。だが、村の歩みは平坦なものではなく、しばしば存亡の危機に直面している。

例えば、1,955年前後の「昭和の大合併」だ。下條村は合併の枠組みなどを巡って大騒動となった。村の南部と北部が真っ向から対立し、とうとう村長が議会が総辞職する異常事態に発展。20・


21頁・結局、合併せずに自力更生による村づくりの道を選択する事になった。どこと合併しても効果が出にくいという地域の特殊事情があり、そもそも合併する相手も見つからなかったのである。

その後「平成の大合併」でも下條村は同じ道を選択する事になったが、この時は村として「自立(律)宣言」(2,004年2月)を行うなど、より積極的な判断だった。下條村はその時点ですでに徹底した行財政改革を行っており、「仮に地方交付税が四割削減されてもゆるぎない財務体質となっており、自律的な自治体構造が既に完成している」(自立(律)宣言)との認識に基づくものだった。1,992年7月に村長に就任した伊藤喜平氏の手腕、打ち出した様々な施策がもたらせたものと言えた。

21・12/24/2016 1:44 PM・


・小さな村の政権交代・21頁・平成28年12月25日 日曜日・


「あのときの村長選は本当に恐ろしい選挙だった。どっちが勝つか全く分からなかった」下條村の職員OBは、三つと巴となった1,992年の村長選挙をこう振り返った。そして、「我々は職員は議長時の伊藤氏に散々やられました。働きがたらん!生ぬるい!と、職員の対してとにかく厳しかった。21・


22頁・もちろん、我々は別の村長候補を応援しました」と明かし、「当時は職員に取って最悪の結果になったと思った」と率直に語る。伊藤喜平氏がわずか98票差で当選したのである。


下條村は、選挙戦が加熱する村として知られていた。政治に関心を持つ住民が多く、国政選挙や村長選挙となると決まって激しい選挙戦が繰り広げられた。保守と革新が真正面から激突する55年体制の時代だった。しかも、地域には自民党(当時)の代議士がいて、議席を巡って熾烈な攻防を続けていた。飯田市出身の中島衛氏(自民党、新政党など)と下條村出身の串原義直氏(社会党)だ。


村長選挙ともなると、保守・革新の両陣営がそれぞれ候補を擁立し大激戦となった。二人の国会議員の代理戦争と言う面も加わり、投票率は90%を上回るのが当たり前となっていた。数少ない村の浮動票を保守革新の双方が奪い合うという選挙である。最後の最後まで勝敗の行方が分からない大接戦が繰り返された。


そんな下條村でも1,992年の村長選は熾烈を極めるものとなった。四機続けた革新系の村長(村野助役出身)が引退し、村の教育長がその後後継候補に担ぎ出された。対抗馬として名乗りを上げたのが、村議会議長だった会社経営者。当時57歳の伊藤喜平氏である。22・


23頁・さらに共産党系の候補も出馬し、村の歴史始まって以来の三つ巴の戦いとなった。職員組合などを中心とした「反伊藤」の堅いスクラムがつくられた。

投票率は96・22%に達し、一票を投じなかった村の有権者はわずかに115人。結果は伊藤喜平氏が1,470票、小池恒久氏が1,372票、中島傳氏が75票で小さな村の政権交代が達成されたのである。村中がひっくり返るほどの大騒ぎとなったのでは言うまでもない。なかでも役場職員の反応は凄かった。誰もが茫然自失となり、そして、戦々恐々となった。


だが、それは、単に自分たちが応援した候補が敗れてしまったからと言うだけではなかった。当選した伊藤さんは村議を三期務め、議長として豪腕を振るってきた人物だった。

職員の多くが、新村長の考え方や実力、人となりについて熟知していた。今までの村長とは全く異質なタイプで、職員に取って最も手強い存在になる事が明らかだった。


日本の場合、地域の名士が自治体のトップに収まるというケースが多い。都市部ではさすがにそうした事例は少なくなっているが、地方に行けば行くほど今もそうした傾向にある。23・


24頁・それは保守と革新が激しい鍔迫り合いを繰り返していた時代も同じで、下條村も例外ではなかった。実際、下條村の歴代村長は農協組合長や郵便局長、村の助役といった地域の名士ばかりだった。そうした点では保守も革新もなかったのである。


ところが、伊藤さんは民間会社の経営者で、しかも、正真正銘の叩き上げだった。若い頃から油まみれ、汗まみれになって働いてきた苦労人で、これまでの村長とは違っていた。24・平成28年12月25日・


「カリスマ村長」・24頁・・叩き上げの事業家・16/12/25 4時50分・

南信州の山奥に忽然と現れた「奇跡の村」は、国や県などから特別な支援を受けていたわけではなかった。国内外の先進事例をうまく模倣し、元気な村づくりに成功したというのでもなかった。地域活性化の特効薬や、あっと驚くような仰天策を運良く探り当てたものでもなかった。24・


25頁・地域の実情に合った施策を自らの創意工夫で編み出し、コツコツと実行し続けた事の結果である。地域全体の地道な努力の積み重ねが奇跡を呼び込んだと言える。

だが、地域に卓越したリーダーがいなかったら、これほどの奇跡には繋がらなかったのも間違いない。1,992年から下條村を牽引し続ける伊藤喜平村長の存在である。

伊藤さんは日中戦争勃発二年前の1,935年1月に下條村で生まれた。実家は運送業を営んでいたが、既に平穏な日常生活は失われていた。戦火拡大に伴い商売道具のトラックが軍に供出させられ、父親も出征となった。戦時下の過酷な生活が続き、飢えに苦しむ日々を送った。


戦後、父親が朝鮮半島から無事帰還し、供出していたトラックも翌年、返還された。それに伴い地域の運送会社五社が統合し、新会社「阿南自動車」が誕生した。企業統合に加わった父親は新会社の下条営業所長に就任した。戦後の混乱が続いたが、それでも明るい光が見え始めていた。

地元の中学校を卒業した伊藤少年は隣接する飯田市の飯田高松高校(現・飯田高校)に進学し、寮生活を送る事になった。そこで待ち構えていたのは、厳しい現実だった。25・


26頁・周辺地域から秀才が集まる進学校でいきなり、落ちこぼれてしまった。400人の中でしたから数えて60番目。なかでも英語の成績が酷かった。山間部の小さな村と都市部では教育環境に大きな違いがあった。

落ちこぼれ生徒に対し、学校の先生は熱心に補習をしてくれた。図書館を夜遅くまで開けてくれ、寮に戻っても勉強を教えてくれた。成績はグングン上がり、三ヶ月で下位のCクラスからAクラスに躍進。北海道大学への進学を希望するようになった。

ところが、高校二年の時に父親が肺結核となり、入院を余儀なくされた。療養は長期に及び、一家は大黒柱を事実上失ってしまったのである。このため、四人兄弟の長男だった伊藤さんが家族の生活を支えねばならない立場となった。


伊藤さんは大学進学を断念し、高校卒業と同時に働く事になった。父親が経営陣の一角を占めていた運送会社の下条営業所事務長となったのである。わずか18歳でいきなり事務所の経理を一人で任された。

現場のドライバーは皆、年上の男とたち。中には荒れくれ者もいた。そうした男たちの中に高校を卒業したばかりの伊藤さんが管理職として放り込まれたのである。しゃにむに働き、経理を独学で習得していった。ドライバーが不足した時は現場にも出たという。26・


27頁・当時、会社は木材を愛知県の豊橋などに運び、物品を積んで地元に戻る問う運搬業に専念していた。そうした業務内容に伊藤さんが限界を感じていた。国土復興が始まるので、土木建設関連への転換をすべきだと考えたのである。周辺地域でダム建設などが行われるようになったからだ。


ところが、会社の経営陣は耳を傾けてくれなかったという。50代から60代の資産家ばかりで、新しい事への挑戦に後ろ向きだったのである。伊藤さんは懸命に説得したが、激論が繰り返されるだけだった。とうとう「どうしてもやりたいんなら、若造、自分でやれ!」と言い渡されてしまったのである。

腹を決めた伊藤さんは、会社を辞めて独立した。21歳だった。会社の部会二人が行動を共にしてくれた。運転手をもう一人雇い入れ、ダンプカーを二台購入した。100万円ほどかかったという。

自分の会社を設立した伊藤さんたちは、ダム工事を手がける大手ゼネコンの下請け業者となり、ダム工事現場にセメントや砂利を搬入する仕事に就いた。自分もハンドルを握り、四人が昼夜交代でダンプカーを走らせた。27・


28頁・汗みどろ、泥まみれとなって懸命に働いた。ダム現場では下駄を履いてドラム缶風呂に浸かったりもした。利益を上げるために死に物狂いだった。

小さな会社を立ち上げて自ら事業を展開するようになり、伊藤さんは数字に敏感になった。コストと利益を常に意識し、いつしか「儲からなかったら、どんな能書きを言ってもダメ」「カネがなかったら、何もできない」という二点を口癖にするようになっていった。

地域の内外を駆け回る日々を送っていた伊藤さんは、ガソリンスタンドが地域に一軒しかない事を知り、開業する事にした。モータリゼーションが日本中を席捲するようになっていった。伊藤さんはその後、自動車整備も手がけるようになり、建設資材にも業務を拡大していった。事業を必然性、必要性に応じて果敢「果敢・かかん・決断力に富み、物事を思いきってするさま。」に展開していったのである。28・16/12/25 5時54分・


・役場の実態に驚愕・28頁・平成28年12月25日・


昭和40年代に入ると、地域の過疎化は急速に進んだ。6,000人台だった下條村の人口は4,000人台に落ち込みとりわけ、若者が地域に残らず都会に流出するようになった。28・


29頁・関わっていた遠方でのダム工事が一段落し、地元周辺での仕事が増えて伊藤さんは「このままでは村がつぶれてしまう」と危機感を募らせた。

村の商工会青年部の仲間たちと村の将来を語り合い、「何とかせねば」となった。そして村の若手から議員を出そうという話になった。白羽の矢が立ったのが、伊藤さんだった。1,975年の事で、当時40歳。若い頃から汗まみれ油まみれになって働き、しかも自力で新事業を切り開いてきた伊藤さんならば地元を活性化してくれるのではないかと、仲間たちが期待感を抱いたのである。

その頃の(今もそういうところが多いが)議員は一種の名誉職で、功なり名を遂げた名士がなるのが一般的だった。政策提言するわけでもなく、お飾りのような存在に過ぎなかった。ほとんどが年配者で、集落ごとに議員になる人の順番のようなものがつくられていた。

伊藤さんはこうした村の暗黙のルールを破って、村議選に出馬する事になった。地元の集落では案の定、大問題となった。しかし、結果はトップ当選だった。

議員として役場内に足を踏み入れるようになった伊藤さんは、初めて知った役場の実態に驚愕した。職員の多くが、国や県の通達や指導、指示をもとに仕事をしていればよいと言う感覚だったからだ。30・


31頁・地域の将来に強い危機感を抱くでもなく、ゆったりと仕事をこなしているだけだった。コストや収益、成果といった数字にこだわり、日々、懸命に働く民間とのあまりの落差に唖然としたのである。

だが、伊藤さんは議員を一期四年務めただけで、身を退く事にした。本業が多忙を極め、会社経営に専念せざるを得なくなったからだ。支援してくれた仲間たちからは「いい石を投げ込んでくれた。村に刺激を与えてくれた」と評価されたという。

その四年後の1,983年。議員復帰を求める声が伊藤さんのもとに寄せられるようになった。ちょうど遠方での仕事が片付いた事もあり、伊藤さんは議員復帰を決意した。そして、トップ当選で二期目、三期目と村会議員を続ける事になったのである。30・16/12/26 4時23分・


 

ここまで・


「カリスマ村長」・24頁・・叩き上げの事業家・


・役場の実態に驚愕・28頁・


・国策に異を唱える・30頁・


・地域重視で行った「常識外れの決断」・34頁・


「意識改革」・38頁・・組合の要求書に「ノー」・


・民間企業で研修」・42頁・


・役場の雰囲気が変わった・44頁・


・少数になれば精鋭になる・46頁・


資材支給事業・50頁・・「ご自分たちで汗をかいて下さい」・


・共助の慣行が蘇る・54頁・


・土建業者と共存共栄・58頁・


「若者定住策」・60頁・・財政健全化で攻めの姿勢へ・


・若者向け集合住宅を自主財源で建設・63頁・


・独自の入居基準を設定・66頁・


・手厚い子育て支援策・68頁・


・Iターン転居者に聞く・「下條村での生活」・70頁・


「下條村の今」・73頁・・村民アンケートで「大合併」を拒否・


・ハコモノは、国の補助金を上手に活用・77頁・


・今後の課題・薄れる議会の存在感・80頁・


平成28年12月24日 


第2章 消滅可能性ナンバーワン?「南牧村」を訪ねて・85頁・

(南牧村の今と昔)「若いと言っても70代後半ですがね」・消滅可能性トップという烙印・注目される今がチャンス?・蒟蒻・養蚕・・・基幹産業の衰退・小学校は民俗資料館に変貌・運動会は村民体育祭に・かつての村民体育祭の模様・

成果なき活性化策・サービスあれども雇用なし・歳入の六割以上を地方交付財に依存・

「古民家バンク」きっかけは酒の席から・空き屋対策で村の活性化を・空き屋調査で地域資源を再発見・三年間で14世帯26人が村へ転入・

「移住者たち」新旧の住民が一堂に会す・「ここなら自分がやりたい農業ができる」・山羊が結んだ絆・若い移住者たちのネットワーク・

「元気な高齢者」メディアの決めつけに憤慨する・「夫婦で500万円はいけますよ」・珍品種の成功で活気づく花卉農家・稼ぎは自分の腕次第・うわべの数字だけ格好をつける「地方創成」では意味がない・

平成28年12月24日

第3章 人をつなげる役場職員「旧・藤野町」(元女性町議の回想様々な新住民「藤野町」の消滅トランジション・タウンヒューマンパワースポット)

素晴らしい事例ばかりだが、国による実効性のある少子化の歯止め策を前提とした移住促進策であってほしいと思う

投稿者gl510ベスト500レビュアー2015年10月18日

『はじめに』を読むと、本書でルポしている三地域は、「地方創生」を大々的に掲げる安倍政権の目玉策の一つとなっている地方への移住促進策において、ほとんどの自治体が創意工夫とは程遠いカネを主とした付け焼き刃的優遇策で思惑通りにいっていないのに対し、山の中の小規模地域でありながら、ひと味もふた味も違う取り組みで成果をあげている稀有な事例ということのようだ。 

このうち、第一章で取り上げている下條村は、村独自の若者定住策と子育て支援策にいち早く取り組んで、全国トップクラスの高い出生率を誇るようになり、人口減少に苦しむ自治体関係者などが、いつしか「奇跡の村」と呼ぶようになったのだそうだ。ただ、こうした施策を打てた背景には、強烈なリーダーシップを持ったカリスマ村長による、このクラスの村では考えられないような健全な財政力というカネの力があることも事実のようで、他の同規模自治体が、おいそれとマネができるような代物ではなさそうだ。 

第二章の南牧村は、高齢化率全国最高、少子化率も全国最低という、日本で最も少子高齢化が進んだ自治体であるだけでなく、「日本創生会議」が予測した「消滅する可能性のある自治体」のトップにあげられている村だ。ここでは、下條村と同じような至れり尽くせりの施策は全く成果がなく終わったものの、村内の空き家を移住希望者に貸し出す住民と村による取り組みなどにより、第三章の旧・藤野町は、「人の誘致」を町の政策にして、若い芸術家の卵や、自然と調和した生活と生き方の提唱と実践を行う団体、芸術教育に力を入れる学園の誘致により、それぞれ移住者を増やしている。 

ただ、これらの施策を読んでいて、これでいいのかなと疑問に思ったことがある。第二章で、南牧村の村長も地方の間での移住者の争奪戦を、「隣近所での取りっこになってしまって何も生まれない」と言っているが、少子化に歯止めが掛からず、日本の人口が減り続ける中での地方への移住促進策では、本書で紹介しているような移住促進策に成功した特定の地域は栄えたとしても、それ以上に寂れる地域が増えてしまうわけであり、それでは「日本創生」には繋がらないと思うのだ(第一章の下條村のケースでも、移住者の多くが近隣自治体からであり、東京への一極集中の解消策にもなっていない)。 

そういう点でいえば、独自の子育て支援策で全国有数の高い出生率を誇るようになった下條村は、まさに「奇跡の村」と呼ぶに相応しい非常に価値のある事例だとは思うが、本来、少子化対策は、地方ではなく国が取り組むべき待ったなしの課題であるはずだ。国による実効性のある少子化の歯止め策を当然の前提とした地方による移住促進策であり、「地方創生」であってほしいと思う。 

安倍政権の地方創生政策が、いかに空疎かがわかる

投稿者小太郎ベスト500レビュアー2016年5月25日

この本で取り上げられているのは、小さな村ばかり。私も地方に住んでいるが、人口は減る一方で、安倍政権の少子化政策が、いかに中身のないものかを肌で感じている。ところがである。

たとえば長野県下伊那郡下條村。陸の孤島とさえ言われているのに、人口4000人の山村が、1998~2002年の5年間平均出生率で長野県トップを記録。今でも1.88人の出生率である(全国平均は1.5ほど)。

この下條村と、南牧村などの山村をルポし、下手な政策より、地元の「人」の意識や考え方を変える工夫をすることで、地方は決して消滅しない……という希望を持たせてくれる。

むろん、この本のケースが全国の過疎地域に当てはまるわけではない。しかし、非常に示唆に富んだ事例ばかりである。たとえば強いリーダシップと卓見をもった村長の存在は、共通している。こういう村長は、地域のことを真剣に考え、他の過疎の町には真似できないような優良な財政力をもたらしている。ぜひ、全国の過疎地域の政治家、役人に読んでもらいたい。過疎だ、無理だと言うだけでは何も変わらないのだから。

全国の自治体関係者が「奇跡の村」とまで呼ぶ、小さな山村から「地方創生」を見る

アホノミクス改め無ノミクスで出された「地方創生」。これは国が高みの見物をする「地方共食い」でしかないが、全国殆どの自治体が罹患するクレクレ依存症を脱し、地方が主役となって成功した3例が本書にはある。役人や政治家らは、税金視察に行く前に最低限入れておくべき知識である。

1. 長野県最南端の下伊那郡の中央に位置する下條村ここでは伊藤喜平・村長が活躍する。

3期の村議経験を経て村長となった彼は、1992年の当選直後から職員の意識改革に挑む。

村長以外の全職員を5人ほどの11チームに分け、飯田市の綿半ホームエイドという民間企業に研修に出し、直接顧客と接する物品販売の店頭に1週間立たせる。

これだけでなく、村長は意識改革を職員に伝え続け、それによって職員もお役所仕事からテキパキと働く精鋭集団へと変わっていく。

目を見張るべきは、受益者3名以上の村道や農道、水路などの整備を住民自らが行い、村はその資材を支給するという、資材支給事業。

年間予算は約1000万円で、反発する村民もいて、実施に至るまで半年間ものスッタモンダがあったが、92年25ヶ所・495万円で始まった後、98年度の114ヶ所・3191万円をピークに、14年までの23年間で1612ヶ所・3億0343万円もの事業となった。

これこそが地域の要望と発意による住民自治であり、視察に来た他自治体関係者ができないと言っているうちは「住民様」と呼びながらも行政事業からは遠ざける姿勢が変わることはないだろう。

98年には村議時代から提言していた合併浄化槽を下水道の代わりに提言。

私も都市部以外はこうすべきと考えているが、それは正解で、現在老朽化に悩む自治体が多い中、ランニングコストも後年負担も村では悩みの種とはなっていない。

これによって浮かせた予算は、子育て世帯の若者向け村営住宅を建設し、地域行事や消防団への加入を必須とした。

国の補助を得ないからこそできた条件付き住宅である。

また補助金を使っては、図書館・インドアスポーツセンター・医療福祉総合センターなどを建設。

子育て施策として、医療費は高校生まで無料、小中学校の給食費半額、出産祝い(第2子5・3子以上20万円)や商品券で配られる入学祝い(小3・中6万円)がある。

これも実質公債費率-5.4%(全国3位)で、借金残高1億1457万円・基金積み立て60億3316万円という超健全財政だからこそ上手く補助金を使い、村の予算を使わなかった成果である。

このように自立した村は、当然合併に住民も反対し、今も自治体として存在する。

目下の問題は、高校が近くにないので、バスの増便など通学に関するものだ。

さすがに高校誘致はできないだろうし、一時的に村を離れる家族が出てもきているが、長期で見れば、入りと出の循環によって、常に新しい活力が生まれることにもなろう。

それよりも私は村長の後任問題の方が重いと思った。

自立した住民が、自治体としての村のボトムアップにつないでいくよう期待したい。

2. 日本一の高齢化率を誇る群馬県南牧村ここで注目されるのは、空き家バンク。村の将来に強い危機感を抱いた南牧村商工会青年部の若者たちが、2010年12月、移住希望者をサポートする南牧山村ぐらし支援協議会」という組織を結成。

行政と協力して、半年かけて村中の空き家を調査し、入居可能な物件をリストアップ。

所有者に賃貸を口説き落とし続け、それら物件などを、若者移住用として村のHPに空き家バンクとして公開した。

 村も協力し、学校給食・保育費の無料化、中学校までの医療費無料、スクールバスの運行や高校生の通学日・入学支援補助、結婚祝い金(3万円)、出産祝い金(5・第3子以降10万円)を用意した。

移住者も協議会に加入し、一緒に活動することで地域のつながりができ、年4回発行の「なんもく山村ぐらし通信」という地域紙でも広報している。このような若者ネットワークや、農業支援なども定住の助けとなっている。

3. 神奈川県の旧藤野町(現在は相模原市緑区)

藤野には戦時中、藤田嗣治や長与善郎など著名な芸術家たちが疎開し、その後も住み着く中で、芸術村を作ろうという夢を語り合ったという。

こうした歴史的な経緯もあり、藤野町は地域活性化の柱に「アートの棲むまち」を掲げ、1988 年から神奈川県とともに芸術イベントの開催や芸術活動の拠点の建設などの「ふるさと芸術村構想」という事業を開始した。

当時、工場や企業、観光施設などの誘致に取り組む自治体が殆どで、「人の誘致」による地域活性化は独自路線だったが、町の若手職員が中心となって奔走し、町としても「人の誘致」を政策として掲げ、移住希望者の相談に親身になって応じるようになった。

それによって外国人の移住者や滞在者も増えていき、「全て生物がより豊かに、持続的に生きていけるような環境をつくり出していくためのデザインと実践の体系」であるパーマカルチャーを学ぶ塾や、廃校となった小学校の校舎に芸術と自由を重視した独特の教育で知られるシュタイナー学園が移転するようになる。

そして多彩な人材が集まる街、様々なコラボレーションが生まれ、賑やかで生き生きとした地域になってきた。

他にも日本では藤野が第一号として、2009年に誕生したトランジション藤野という大量消費型の社会システムから、持続可能な生き方に移行(トランジット)していこうというイギリスで始まった草の根的な住民活動がある。

これはお互い様の支えあいを形にした地域通貨よろづ屋や、住民による森づくり(皮むき間伐)を行う森部、食の自給 ・在来種・固定種の継承 ・生産者・消費者双方の顔が見える流通形態 などをテーマにしたお百姓クラブ、地域で支えあって生きている人々が、それぞれに自分なりの健康像を持ち、そこに向かかって医療に依存しすぎることなく歩もうとする健康と医療、市民発電所の建設 など自立分散型の自然エネルギーを地域で取り組む 藤野電力など7つのグループが活動中。

これらの「奇跡」は、どれも住民の力が行政力よりも必要で、そのような自立した市民でなければ、国の政策に唯々盲従し、消費されていくしかない将来像も示している。為政者や行政は、それをどう市民に指し示し、それぞれの市民に知恵を出し、汗をかいてもらって自立するしかないかを辛抱強く説いていくしかない。

首長をヒーロー視しても何も変わらない(行政サービスを削る悪化はできるが)。主体をヒーローでなく、個々の市民に取り返すのが真の「地域創生」でなければ、地域も国もないのだ。経済や軍事面で強くなるのが市民にとっての理想国家か?それは夜警国家への逆戻りでしかないと、本書からも学んでこそ、著者の各地手の取材も活きてこよう。

できれば3地域でなく、本書1冊で1地域にしてもっと深掘りしてもらいたかったので1減点とする。

とどのつまりは、人。

どんなアイデアがあっても、どんなに優秀な人がいても、「どんなに立派なリーダー」がいても、普通の人と人の協力し合える、認め合える、関係が無ければ地域の発展は無いと思います。地域の再生・活性化は、「人口」ではなく「人と人の結びつき」でしか育たないと思います。

5:07 2016/12/19

議会とは、国民の代表であるので、課題の分からないでは、ならない?国民に優しく説明する氏名と責任がある、

徹底的な行革を、求め続ける、議員との伝える、に条例でメールを持つ義務を与えて、これを後悔して、国民が評価する議員を、

地方創成は議員次第、雇用増の、血税の使い方を決定する、真の代表だ。

議員の力は首長以上、知ろう、働かそう、よりよい龍郷町作りには議員の力を、国の法整備、自治体の法政上から地方自治体の、

国民の幸福度を向上する、議員は専門的な審議をして貰わないと、

3/龍郷町に住む、人々は皆友人です。日本一の龍郷町を皆様と共に、作り上げて、若い人に夢のある豊かな社会を、つくりあげましょう。

20の集落同士をミニバスでつなぐ、ことで共同体の意識で、助け合いの龍郷町を?

ゴミの完全分別でゴミ処理費の削減・中間処理場で、30人ぐらいの雇用をつくりだす、これも国の補助金事業だと、建設費用が高くなるので民間資金で工場を(鹿児島県大崎町で視察してきました)

農業委員会は仕事をして、こうさきほうきちはなくす、これも承認権がある議員さんの仕事が、条例で決めても、提案権を使っても、

職員はタテワリで仕事をやっていては町民の負担できない、横断的に仕事をして、下條村並に少数精鋭で

議員様は、町の万能者、国民との対話を大切に、連絡場所を明記、副業を禁止して大切な議員活動を、

都道府県幸福度ランキング

女性の活躍に向けて、移住者の幸福度を、

 

皆さん私どもの手で島を活性化しませんか

私は荒れた先祖の田雲の山林を採石業者の破壊から守り・アダン・ソテツ・シャリンバイなどで増やし・自然の状態に戻して来ました、自然の状態で、未来に残しました。

貴重な予算は税金・行政職員には、予算の優先順位などを考え、を奄美大島の中程の田雲川には橋を架けないで、経済的な島の人々の生活向上はできない。

・役人さまでは創意工夫はできないし、予算を例年通り、使い国民の貴重な血税を税金、使い方を? 考えないから奄美大島のネットワークが切れているのに・対策を考えないで・和光・おがみ山ルートを強行して・太平洋側に道路を作ってこなかった、この損出は大きいのです、LCCが2便も都会から飛んでくる時代に、受け皿を考えない自公の政治・

ガソリン税自動車は月平均一軒あたり、8,000円×1,000軒では800万円も一ヶ月に払っている血税を?

役人にはできない・未だに奄美市の土木課は計画ないと申します?!

田雲川に橋があったら・田雲線を整備したら・戸口から田雲まで人が住んでいない?!

アマシンは本来、島の経済的自立のためなのに、行政職員には責任もノウハウもありません?組織がそうなっていいます、職員に奄美大島の再開発を任せてきました。

仕事しては、林業・牧畜・農業など・滞在型リゾート民宿など?地元の聡明なる主婦の仕事が増え、雇用増で元気な離島社会が実現?山林を管理して赤水を流さなければ豊かな海に戻る戦後この仕事に投資をしてこなかった政治?私たち国民の手で計画プランを作り実行していきませんか?

鹿児島県奄美市名瀬崎原田雲534・瀧田 好治・0997-69-3195

takita@po.synapse.ne.jp平成28年7月21日

11/30/2016

2016年11月21日 (月)


亡国予算―闇に消えた「特別会計」 単行本 – 2009・4・28 ・北沢 栄(著) だれも知らない日本国の裏帳簿―国を滅ぼす利権財政の実態! 石井 紘基 (著)そのほかいろいろ・ http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/11/post-2806.html 5:55 2016/11/27


2016年11月21日 (月)反骨の市町村 国に頼るからバカを見る 単行本 – 2015・3・19 相川 俊英・・・ 第1章 お任せ民主主義「タリキノミクス」が日本をダメにした・

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/11/2015319-1-a8f5.html

2:08 2016/11/21


http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2015/04/post-e46e.html

11/21/2016


だれも知らない日本国の裏帳簿―国を滅ぼす利権財政の実態!  – 2002/1

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2016/11/post-2806.html

11:44 2016/11/21



「田中角栄を葬ったのは誰か」シンポジウム「田中角栄」(全編)視聴回数 6,765 回・2016/07/26 に公開■シンポジウム「田中角栄」■期日:平成28年7月26日(火)5時開場 5時30分開演・場所:憲政記念館講堂

主催:日本一新の会・(株)K&Kプレス・ゲストスピーカー小沢一郎(衆議院議員)石井 一(元自治大臣)「冤罪」(田中角栄とロッキード事件の真相)著者

大下英治(政治評論家)・パネラー佐高 信(評論家)早野 透(元朝日新聞記者)平野貞夫(元参議院議員)「田中角栄を葬ったのは誰か」著者植草一秀(経済学者)

https://youtu.be/-azD53mPWi8

6:19 2016/11/18


(公式)植草一秀氏(政治経済学者)「安倍政治の本質とブレイクスルーの方策」 チャンネル登録364 ・視聴回数 10,622 回・2016/06/03 に公開・第14回世界友愛フォーラム(主催:東アジア共同体研究所)に政治経済学者の植草一秀氏をお招きし、講演していただきました。

https://youtu.be/AYaIEPu5vTk

4:45 2016/11/18


反骨の市町村 国に頼るからバカを見る 単行本 – 2015・3・19 相川 俊英 (著) 内容紹介

http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2015/04/post-e46e.html


http://amamioosimasanrinha.synapse-blog.jp/takita/2015/04/post-e46e.html

11/21/2016


まえがき

・アベノミクスでは地方創生はできない・1頁・

日本の政治は戦後一貫して、「国土の均衡ある発展」を金看板に掲げてきた。地域住民の生活向上を目指し、全国津々浦々でインフラ整備を進めてきたのである。

巨額の税金が投じられることになったが、そのおかげで生活基盤の地域差は少なくなり、日本どこに住んでいても一定の利便性を享受できるようになった。国指導で進められた公共事業の成果と言える。

しかし、ハード面での「国土の均衡ある発展」が進展すると同時に、東京など大都市部に富と人が集まるようになっていった。一方で地方からの人口流出が加速し、過疎地域が生まれ広がっていった。地方の衰退である。

国は税金を投入することで地方の疲弊を抑えようとした。ハード事業を中心とする手厚い支援である。地方の側も国の支援を望み、頼みとした。それは単に財政面だけではなく、政策面においてもだ。地域の実情を横に置いたまま、国が一方的に提示する政策をそのまま採用し続けていた。自分たちで創意工夫する努力を怠るようになっていったのである。


商品の説明をすべて表示する 単行本(ソフトカバー): 226ページ

出版社: 講談社 (2015/3/19)言語: 日本語発売日: 2015/3/19


目次


第1章 お任せ民主主義「タリキノミクス」が日本をダメにした・


・行政、住民、政治の「じゃんけん」・16・

政治や行政への不満や不信が日本中を覆いつくすようになって、すでに久しい。

自分たちの思いを汲み取らずに動く政治や行政に怒り、嘆き、それどころか関心を失っていく人たちが後を絶たない。自分とは関係ないものだと政治や行政にそっぽを向いてしまうのだ。

だが、この世の中に政治や行政と無関係に生きられる人など存在しない。人間誰もが社会的な存在であるからだ。政治や行政の影響から逃れることはできない。それは、関心のあるなしとは別次元の話である。

そもそも我々住民にとって政治や行政とはいかなるもので、「行政、住民、政治」はどのような関係性にあるのだろうか。


この三者を「じゃんけん」に関係に置き換えて説明する人がいる。誰もが知っているグー(石)チョキ(ハサミ)、パー(紙)のじゃんけんである。

パーは政治家で、このパーに勝るチョキが住民だ。選挙によってパーの政治家をただの人に変えることができるからだ。チョキには勝てない政治家もグーの役人にはめっぽう強い。16・


17頁・16/11/19 11時25分・

だが、政治家にからっきし弱い役人も住民には強気だ。上から目線で住民を見下ろし、いんぎん-ぶれい慇懃無礼に接する役人がなんと多いことか。

こうした実態から住民と政治家、役人の抑制均衡関係をわかりやすく「じゃんけん」に例えているわけだ。それは、この三者を三つ巴の関係と捉えているからだ。

その三つ巴の関係が、現在、非常に歪んでしまっている。

・最大の原因はチョキ(住民)にある。ハサミが小さくなり、しかも、開きが悪く、切れ味が著しく低下してしまっている。チョキの機能が落ちるにつれ、パー(政治家)は弛緩してしまい、どんどん劣化していった。チョキに切られるという不安や恐れが薄れ、切磋琢磨する必要がなくなってしまったからだ。

・その結果、パー(政治家)はどんどん小粒化・劣悪化していき、実質的にグー(役人)の一人勝ちになっていった。これが政治(政治家)と行政(役人)、住民の三者による「じゃんけん」関係の歪んだ現状である。

だが、政治と行政、住民の関係を「じゃんけん」関係と捉えるのは、そもそも大きな間違いだ。本質的にはそういう関係ではなく、また、そうであってもならない。17頁・16/11/20 5時16分・


18頁・三者の関係を理解する上で最大のキーポイントとなるのが、「税金」だ。

税金とは何か。

「我々や我々の子や孫が生活をしていく中で、さまざまな社会的な課題を抱えることになる。そうした社会的な課題を解決するために、皆であらかじめ出し合う金」が、税金である。

その税金の集め方と使い方、さらには生活していく上での様々なルールを作るのが、政治だ。つまり、政治が、税金を使って解決すべき社会的課題か否かの判断を下すのである。

もちろんそれが税金を使うべき社会的な課題かどうかの判断基準は一定でなく、時代や社会状況、地域によって変わる。

・重要なのは、税金を支払っている人たちの合意や納得に基づく決定であるか否かである。

・税金が決定した税金の集め方、使い方に則って実務をとり行うのが、行政(役人)だ。つまり、本来は政治(政治家)が行政(役人)をコントロールしなければならない。

では、その政治の担い手は誰か。日本社会は主権在民となっている。つまり、われわれ一人ひとりの有権者が政治の担い手であり、税金の集め方と使い方、そして社会のルールづくりの主役なのだ。

ところが、残念ながら現実はそうなってはいない。先ほど説明したように、ゆがんだ形での「じゃんけん」関係が形成され、グー(役人)の一人勝ちとなっているのが実態である。18・


16/11/21 0時53分・


・自治体は「分譲マンション」・19頁・


本来の住民と政治(政治家)、行政(役人)の三者の姿を例えるならば、「じゃんけん」関係ではなく「分譲マンション型」関係というべきだろう。

分譲マンションの場合、区分所有権を持つ住民らが管理組合を組織する。そして、自分たちの中から役員を選び、管理組合のトップ(理事長)を選ぶ。

・管理組合はマンションの維持管理や保守、修繕などについて議論し、方針を決める。実務は管理組合ではなく、委託された管理組合が行う。この管理会社が、行政つまり役所に当たる。管理などにかかる経費の原資は区分所有者が支払う管理費で、これが税金に当たる。

・マンション管理組合の役員会に当たるのが議会で、理事長は国政ならば内閣総理大臣、地方自治体ならば首長ということになる。国政の場合、選挙で選ばれた管理組合の役員の中から総理大臣を選ぶが、地方自治体の場合は役員選挙とは別に、管理組合トップの選挙を行うことになっている。二元代表制である。

マンション管理組合の理事長の役割は、住民の代表として管理会社をマネージメントすることだ。管理や点検、修繕などの方針や予算などを取りまとめ、管理組合の役員会や総会に諮るのは建前となっている。19・


20頁・平成28年11月21日

実際のマンションの場合、そこに居住していない(区分所有していない)人が理事長になることはあり得ないが、地方自治体の首長は住民以外の人でも選挙に当選すればなれる。

・その点を除けば、マンションの管理組合と地方自治体の構造はきわめてよく似ている。

・ところが、実情を見ると、区分所有者の多くがマンション全体の管理に関心を払わず、役員会が機能していないケースが多い。理知場や役員のなり手がなかなか現れず、居住環境の維持や改善は自分たちの日常の問題にもかかわらず、総会に出席しない住民さえ少なくない。なかには管理費を滞納する居住者まで現れる。

こうなると管理組合は機能を充分に発揮できなくなり、理事長も単なるお飾りになってしまう。いつの間にか、委託先の管理会社の社員が実質的な理事長になってしまうのである。つまり、行政(役人)がすべてを取り仕切ることになる。

先ほど紹介した歪んだ「じゃんけん」関係でグー(役人)が一人勝ちになるというのは、こういうことを指している。

では、管理会社への丸投げが進むとどうなるか。居住者の要望や都合よりも管理会社の都合が優先されることになりがちだ。20・


21頁・例えば、マンションの駐輪場を広くしたいといった居住者の生活実感に根ざした要望よりも、事業費の大きくて業者にとって「うまみ」のある外壁の塗り替え工事などが優先されたりする。毎月の管理費が高くなり、その割には、本来居住者が望んでいるような住環境の維持や改善が一向に進まぬ事態となるのである。

ではなぜ、管理会社への丸投げが行われてしまうのか。

マンション居住者には「管理することはめんどくさい」「暇はない」「余裕はない」「カネは払っているのだから、誰かに任せたい」という思いがある。

自治体における「お任せ民主主義」というのが、まさしくこれである。21・


平成28年11月21日・ここまで・

第4章 実録「ジリキノミクス」で実現した豊かな暮らし・


・ジリキノミクスへの取り組み・98頁・


村を蘇らせた「働く公務員」~“「崖っぷち型」ジリキノミクス”福島県泉崎村・100頁・平成28年11月18日

「短くても半年、それも2人ずつ何とか受け入れて頂けないでしょうか?」

「職員を減らしているので増えるのは困ります。無理です」

「そこを何とかお願いします。・東北の下條村・を目指したいのです。受け入れて頂けるまで何日も寝泊まりする覚悟で参りました」


2,010年2月のある日のことだった。2人の男性が応接間で向かい合い、こんなやりとりを続けていた。長野県下條村の村役場の応接室だった。

懇願されて困り果てた表情を見せるのは、下條村の伊藤喜平村長。

・一方、要求が受け入れられるまでテコでも動かないと悲壮感を漂わせていたのが、福島県泉崎村の久保木正大村長だ。前年11月に就任したばかりの新人村長だった。直線距離で数百キロメートルも離れた福島から、不退転の決意で訪ねてきたのである。

それは、泉崎村の職員を下条村役場で長期研修させたいという異例の申し入れだった。

市町村職員が県や国、研究機関などに研修目的で出向する事例はよくあることだが、村の職員が他県の村で長期研修をするというのは聞いたことがない。短期日程での視察で済ますのが、通例でもあるからだ。100・

101頁・実は、泉崎村の久保木村長は、自らが村議会運営委員だった時に下條村を視察し、様々な取り組みの説明を下條村の担当者から受けて、深く感銘した体験を持っていた。


・人口4,000人ほどの小さな山村に過ぎない下條村は、行政関係者の間から「奇跡の村」と呼ばれていた。財政改革を徹底し、全国のトップクラスの健全財政を運営していたからだ。


下條村の「財政力指数」(必要経費を税収で賄える割合)はわずか「0・221」と低いが、実質公債比率(一般財源に占める借金返済額の割合)はマイナス五・四%出、なんと全国ベスト3位。実質公債比率がマイナスを記録しているのは、交付財措置付きの借金を繰り上げ償還していることによる。


経常収支比率(一般財源に占める義務的経費の割合)は65・1%と6年連続で6割台を維持。また、村の実質的な借金残高が約一億一四〇〇万円に対し、基金残高は約六〇億円にも上っていた。一般会計の歳出額が約二四億二〇〇〇万円ほどなので、その2年半分に相当する(いずれも2,013年度決算)。101・

102頁・16/11/18 7時41分・ 


・「奇跡の村」の役場改角に学ぶ・102頁・

無駄をトコトン省き、仕事の効率化を追求し続けた下條村の伊藤村長の手腕は、確かに注目に値する。

・伊藤村長は1,992年の村長就任直後から、役場職員の意識改革に乗り出した。当時としては常識外れとも言える職員の民間企業への研修など、役場改革を断行した。ピーク時に五九人いた職員を37人にまで減らし、「少数精鋭」に変えた。「お役所仕事」を一掃し、職員を働くプロ集団に育て上げたのである。

コウした役場の奮闘ぶりに、住民たちも呼応した。村が提案した建設資材支給事業を受け入れ、小規模の道路や農道、水路の施工を住民自らが行うようになったのだ。

また、下條村は下水道を合併浄化槽に一本化する決断を下していた。国から手厚い補助が出る公共下水や農業集落排水事業よりも、トータルコストが少なくて済むと判断したからだ。実際、その通りの結果となった。

・下條村は一連の財政改革によって捻出した財源を、少子化対策などに充てた。子育て世代専用の村営住宅の建設や子供の医療費無料かなどである。こうして山間部に広がる小さな下條村が、全国有数の高い出生率を誇る自治体となったのである。102・


103頁・応接室でのやりとりがしばらく続いた。何度も頭を下げる泉崎村の久保木村長に根負けし、下條村の伊藤村長がとうとう「1人ずつなら・・・」と受け入れを承諾した。

こうして2,010年4月から、福島県の小さな村から長野県のより小さな村への職員派遣が実施されることになった。研修は1名ずつ、半年間ごととなった。

それにしてもなぜ、泉崎村の久保木村長はこれほどまでにこだわったのか。村の悲惨な財政状況がその背景にあった。

先述の通り、北海道夕張市が2,007年3月、国の管理下で再建を進める「財政再建団体」となった。環境事業に失敗し、巨額の負債を抱えていたことが表面化したのである。夕張市の突然の財政破綻に住民のみならず全国民が驚愕し、日本中に夕張ショックが広がった。自治体財政の危うい実態に関心が集まるようになり、誰もが「我が町の財政は大丈夫か」と不安を抱くようになった。

実は、日本中が夕張ショックに見舞われる数年前に、別の自治体がすでに財政破綻していた。夕張市のような全国的な知名度を持つ自治体ではなく、どこにでもあるような地味な小規模自治体であったため、大きな話題になることはなかった。その破綻自治体というのが、他でもない福島県泉崎村だった。103・


104頁・16/11/18 8時14分・

・イケイケ路線でがけっぷちに・104頁・平成28年11月18日・

福島県泉崎村は白河市に隣接する小さな農村で、人口約6,600人。福島県南部の一寒村に過ぎなかったが、東北新幹線の開業で村を取り巻く環境は大きく変貌した。

・1,982年に新白河駅が開設され、新幹線新駅に隣接する泉崎村はバラ色の夢を描くようになった。1,991年には東北新幹線の東京乗り入れが実現市、村は沸きに沸いた。「我が村が東京への通勤圏になった」と喜んだのである。

・実際、泉崎村が1,984年から造成をはじめた住宅用分譲地(430区画)は完売し、その後も村役場に問い合わせの電話が殺到した。当時の村長は豪腕で知られた人物だった。「日本一豊かな村に」を公約に掲げ、イケイケの拡大路線を貫いた。新たな住宅用分譲地や工業団地の造成、さらには大規模公園墓地の造成まで目いっぱい手を広げた。

・しかしその時すでにバブル経済は崩壊していた。泉崎村のイケイケ路線は完全に裏目に出てしまったのである。進出予定企業が相次いで注視を宣言し、新たな住宅用分譲地も売れたのは180区画のうちわずか12区画だった。


土地の販売代金で造成工事費などを支払うという計画が完全に破綻し、村早く六八億円もの負債を抱えてしまった。104・


105頁・これは当時の村の標準財政規模(約二四億六七〇〇万円)の約二・8倍に当たる途方もない額で、泉崎村はにっちもさっちもいかない状況となった。

・この事実が明らかになる前に豪腕村長が突然辞任し、村は大騒ぎとなった。


2,000年2月に村長選挙が実施された。結果は前村長の後援会青年部長だった小林日出夫氏の当選となった。対立候補とわずか46票差という大激戦だった。

村内で建築業を営む小林氏は、行政経験はもちろん議員経験もゼロ。泉崎村の財政破綻の詳細について、知るよしもなかった。後援会幹部として後継候補の擁立に奔走したが、財政破綻の事実を知る役場幹部は逃げ回り、自らが出馬せざるを得なくなったのである。105・

平成28年11月18日ここまで


・国に頼らぬ自主再建の道・105頁・


小林新村長は村の財政状況の説明を聞き、初めて耳にした財政破綻の事実に言葉を失った。

・しかし新村長は、直ちにその事実を村民に公表した。地区ごとに住民説明会を開催し、村の窮状を村民に知らせて協力を求めたのである。


・そして、議会で議論を重ねた末に、国の管理下に入る財政再建団体ではなく、村債の発行が出来なくなる自主再建の道をあえて選ぶことにした。


・夕張市のように財政再建団体になれば、行政サービスは否応なく最低水準に落ちる。そうなれば工業用地や住宅用地も売れなくなり、村民の負担が増えることになる。105・


106頁・苦しくとも自主再建の道を選び、粘り強く土地を売っていくほうが良策だと判断したのである。

・小林村長は福島県に日参し、県の財政支援を取り付けた。県から低利の融資を受け、負債の大部分を占めた農協からの高利の貸し付けの返済に充てたのである。

村は2,000年度に「自主的財政再建計画」を策定し、人件費や各種補助金のカットと言った歳出削減に乗り出した。借金が出来ないので単独事業は原則として行わず、ちょっとした道路の補修などは役場職員が対応することにした。

・また、分譲地の販売促進による歳入確保にも全力をあげた。住宅用分譲地の販売価格を下げ、すでに買った人にはその差額を返金した。また、村の分譲地を購入して住宅を新築した人を対象とした「ゆったり通勤奨励金」を新設した。村内の対象となる分譲地から村外に電車通勤する場合、三〇〇万円を限度に補助金を交付する大胆な策だった。

・泉崎村は、宣伝活動にも必死に取り組んだ。小林村長を先頭に、議員や職員、住民が東京の銀座で分譲地の宣伝ビラを配って歩いた。大型バスで村を案内する「現地無料招待会」などを開き、村民自らがソバを打って参加者をもてなしたりもした。

・アイデアマンだった小林村長は、2,007年に泉崎村から約200キロメートル離れた東京・銀座まで歩く「財政再建行脚」を行った。分譲地のPRを狙ってのことだ。106・


107頁・16/11/18 9時9分・翌2,008年も2回目を実施し、12月27日に泉崎村の自宅を出発して大晦日にゴールの銀座にたどり着いた。

・こうした村を挙げての販売活動が評判を呼び、分譲地が売れ出した。負債の山は少しずつ小さくなっていった。

ところが、泉崎村は思いもしなかった悲劇に見舞われる。2,009年9月、必死に財政再建に取り組んでいた小林村長が急死したのである。

107・平成28年11月18日・


「少数精鋭」役場の仕事ぶり・107・

・リーダーを突然、失うことになった村は再び大騒ぎとなった。急遽、村長選が行われることになり、2,009年11月に久保木正大氏が新村長に就任した。

先に紹介したやり取りは、そのわずか3ヶ月後のことだった。

「以前から役場のスリム化が急務と考えていましたが、職員数を削る話ですので、どうしても職員に抵抗感があります。下條村は考えられないような数の職員で、実際に仕事をしっかりこなしています。どうやって仕事をこなしているのか、生で実態を見せて貰い、うちの職員に学ばせた地と考えていました」

・こう語る泉崎村の久保木村長は、素早い行動力と粘りを発揮し、下條村から受け入れ承諾を引き出したのである。107・


108頁・久保木村長は、派遣する職員を40代の課長補佐クラスから自ら選び出し、業務命令で半年間ずつ送り込んだ。その第1号となる職員が下条村役場に単身でやってきたのは、2,010年4月だった。

・最初はものすごく緊張しました。役場の廊下を歩いている時も体がふわふわしている感じがしました」

こう振り返るのは、この研修職員第1号となった泉崎村の星雅之さんだ。少ない人数で仕事をしっかりこなす下条村役場の組織体制や配置、使途との仕方などに着目した。


・職員一人ひとりが実によく働き、一人二役や三役をしていること。仕事をする上での横のつながりが強く、職員が各課をまたいで働いていることなど、星さんにとって驚きの連続だった。

また、下條村は4つの課(泉崎村は当時11課)しかなく、業務の割り振りと配置も独特だった。星さんは、それが住民サイドに立って作り上げられたものだと実感した。

星さんはいろいろな地域活動にも参加させて貰った。そこで目にしたのは地域のまとまりや結びつきの強さだった。

・そして、飲み会の席で地元の人が漏らしたこんな言葉に、強い衝撃を受けたという。

「俺たちは自分たちが副村長になったつもりで村をよくしようとしているんだ」108・


109頁・16/11/18 15時5分・


険しいゴール・109頁・

下條村研修の半年はあっという間に過ぎた。泉崎村に戻った星さんは、全職員お前で研修方向を行い、後任者にバトンタッチした。

泉崎村職員の下條村研修は、2,014年9月末まで続いた。半年間の研修を体験した職員は9人に上った。

・泉崎村は2,013年10月25日、土地造成事業の失敗で抱えた巨額な負債の完済を果たすことが出来た。13年間に及ぶ自主再建の険しい道のゴールに、やっとの事でたどり着いたのである。

・久保木村長は、「ようやく他所並みになりました。過去のつまずきを反省材料にして、健全財政を貫いてきたい」と語る。

歳出削減を続けてきた泉崎村は職員採用を抑え、新規採油は13年間でわずか3人。久保木村長の就任時(2,009年)に91人いた職員が、現在(2,014年)は70人に減少している。村は少数精鋭路線を確立させるため、2,014年4月に役場組織の大改革に踏み切った。一一あったかを下條村と同じように4課に再編し、係長を亡くしてグループ長に変えたのである。

職員が自分の仕事だけをするのではなく、職員全体で仕事に取り組み組織にしようというものだ。109・


110頁・役場全体を下條村のような「働く公務員集団」に磨き上げようという、不退転の決意の表れである。

絶体絶命の危機に直面した場合、事態を打開するには必死に努力するしかない。歯を食いしばってひたすら頑張るのみである。そんな苦境の時ほどリーダーの良し悪しが鍵となる。

・陣頭に立ち、熱意をほとばしらせて取り組む人物を選び抜くことが重要だ。泉崎村は小林さんと久保木さんという2人のリーダーを選び、住民と職員が一丸となって行財政改革の努力を愚直までに重ねた。

・逃げずに真摯に進めてきたことが、負の遺産との決別に繋がったと言える。

問題は、状況が好転してからもその姿勢を貫けるかどうかではないか。


福島県泉崎村

・「財政自律度」ベスト438位・

・「住民1人当たりの借金残高」ワースト650位・

・「税の納付率」ワースト172位・

・「自治体選挙における投票率」・

村長選挙68・09%(2,013年10月13日)ベスト447位・

村会議員選挙79・43%(2,011年9月18日)ベスト323位・

・「豊かさ度(財政力指数)」ベスト614位・111頁・


平成28年11月18日 金曜日


地方の光となった図書館~「退路断ち切りがた」ジリキノミクス」福島県矢祭町・111頁・

全国でいち早く「合併しない宣言」112頁・

世にも珍しい住民手作り図書館・113頁・

冷ややかだった専門家も認めた・117頁・

「子供司書制度」で心の教育・118頁・

・自治体が抱える時限爆弾~「伝統・風土型」ジリキノミクス」神奈川県秦野市・120・

・ハコモノメタボを筋肉質に改善・123頁・

・地域資源を生かし切る~「先人の教え尊守型」ジリキスト」島根県雲南市・125頁・

・地域を育てていく使命・127頁・

・自力で開発するオリジナル商品・129頁・

・「クラゲで世界一」~「ひらめき・目から鱗型」ジリキスト」山形県鶴岡市・131頁・

反骨の市町村 国に頼るからバカを見る 単行本  – 2015/3/19

 

相川 俊英 (著) 内容紹介

 

アベノミクスの「地方創生」は画に描いた餅!

このままでは国土は強靭化どころか弱体化し、多くの市町村が破綻・消滅する!

出生率の低下、東京一極集中で、2040年には市町村が半減すると言われている。

これは地方自治体の多くが、中央官庁お仕着せの政策とばらまかれる補助金、すなわち「タリキ(他力)」に頼ってきたツケに他ならない。一方で、国に頼らず独自のアイディアと取り組み(「ジリキ(自力)」)で自治体の再生・活性化を成功させた「奇跡の市や村や町」がある。

過疎化から人口増に逆転させた村、シャッター商店街をよみがえらせた町……。

彼らはいかにして自分たちを守り、未来を切り開いたのか。その奇策とは!?

ローカルアベノミクスのまやかしに警鐘を鳴らす地方自治取材のスペシャリストが、地方再生の特効薬「ジリキ(自力)ノミクス」を提唱する!

「自律度」「豊かさ度」「税納付率」「投票率」ほか独自集計の市町村ランキングも多数掲載。  

お仕着せの政策とばらまかれる補助金では地方創生などできない!わが道を行く「ジリキ(自力)ノミクス」でよみがえった自治体、それぞれの奇策とは!?

 行本(ソフトカバー): 226ページ

出版社: 講談社 (2015/3/19)言語: 日本語発売日: 2015/3/19

目次

第1章 お任せ民主主義「タリキノミクス」が日本をダメにした・

(行政、住民、政治の「じゃんけん」・16・

・自治体は「分譲マンション」・19頁・

・タリキノミクスとジリキノミクス・21頁・

グーの上にカスミとベイ・24頁・

客(住民)を客とも思わぬ体質・27頁・

「水は足りている」のに作るダム~「公共事業の迷走」宮崎県川南町・29頁・

改修の要望がいつの間にか新設に・30頁・

「新たな水はいらない」農家ばかり・32頁・

「ジリキノミクス」5つのメリット・34頁・

第2章 納税者が知るべき「自律度」ランキング

・独自に全市町村をランキング・38頁・

「財政自律度」ランキング・39頁・

「住民1人当たりの借金残高」ランキング・42頁・

「税の納付率」ランキング・43・

「自治体選挙における投票率」ランキング・45・

第3章 後悔先に立たず「タリキノミクス」の落とし穴

「豊かな自治体」の顔ぶれ~「財政力指数」ランキング・64頁・

カネが溢れていても人が増えない~“「財政力指数」ベストワン”愛知県飛鳥村・67頁・

財政難から富裕村へと大変貌・69頁・

カネがあっても人を呼び込めない・70頁・

「タリキノミクス」自治体の4分類・73頁・

富裕自治体からの転落~「あぐら型」タリキノミクス」神奈川県南足柄市・75頁・

企業からの税収頼みの危なさ・78頁・

「橋本ポピュリズム論」の誤解「放蕩型」タリキノミクス」大阪市・81頁・

大阪市民の厚遇とハコモノ充実度・82頁・

教育環境の劣悪化で学力・体力低迷・84頁・

とどまった既得権の洗い流し・86頁・

コンパクト化が再生の鍵~「過保護感覚マヒ型」「タリキノミクス」北海道夕張市・88頁・

ハコモノづくりの打ち出の小槌・91・

第4章 実録「ジリキノミクス」で実現した豊かな暮らし・

・ジリキノミクスへの取り組み・98頁・

村を蘇らせた「働く公務員」~“「崖っぷち型」ジリキノミクス”福島県泉崎村・100頁・

・「奇跡の村」の役場改角に学ぶ・102頁・

・イケイケ路線でがけっぷちに・104頁・

国に頼らぬ自主再建の道・105頁・

「少数精鋭」役場の仕事ぶり・107・

険しいゴール・109頁・

地方の光となった図書館~「退路断ち切りがた」ジリキノミクス」福島県矢祭町・111頁・

全国でいち早く「合併しない宣言」112頁・

世にも珍しい住民手作り図書館・113頁・

冷ややかだった専門家も認めた・117頁・

「子供司書制度」で心の教育・118頁・

・自治体が抱える時限爆弾~「伝統・風土型」ジリキノミクス」神奈川県秦野市・120・

・ハコモノメタボを筋肉質に改善・123頁・

・地域資源を生かし切る~「先人の教え尊守型」ジリキスト」島根県雲南市・125頁・

・地域を育てていく使命・127頁・

・自力で開発するオリジナル商品・129頁・

・「クラゲで世界一」~「ひらめき・目から鱗型」ジリキスト」山形県鶴岡市・131頁・

・不名誉な称号「落ちこぼれ水族館」133頁・

・オセロゲームのような大逆転劇・134頁・

・住民主導バス路線開設~「ひらめき・目から鱗型」ジリキスト千葉県印西市・137頁・

・利用者本位のバス事業・139頁・

・シャッター商店町の起死回生策~「試行錯誤型」ジリキスト・愛知県岡崎市・142頁・

・豊富な専門知識とおもてなしの心・144頁・

・「三方よし」の発想・146頁・

芸術家やIT企業家が続々移住~「人材集約型」ジリキスト」徳島県神山町・149頁・

・日本の田舎をステキに変える!・150頁・

・ユニークな移住支援活動・153頁・

第5章 「ローカル・アベノミクス」に騙されるな

・これまでの公共事業とこれからの公共事業・158頁・

・なぜ「タリキノミクス型」が多いのか・160頁・


・加速する土建政治の十倍返し・162頁・

「忘れられたダム事業」の復活~「タリキノミクス型公共事業」熊本県・164・

・亡霊「立野ダム事業」・166頁・

・二の次にされた白河河川改修・168頁・

・身の丈事業と驚くべき村民力~「ジリキノミクス型公共事業」長野県下条村・170頁・

・住民が村道や水路を整備・補修・171頁・

・下水道ではなく合併浄化槽を選択・172頁・

・国策による負の連鎖「土砂災害」・175・

・スギ・ヒノキの人工林が山を壊した・176頁・

・ダムは森林再生にはつながらない・179頁・

・力技だけでは土砂災害に勝てない~「森林再生」ジリキスト」神奈川県相模原市・180頁・


第6章 地方創生の特効薬とは何か・

・地域活性策の「失敗の歴史」・186頁・

・地域活性化予算を虚しく消化・188・

・スローガンで終わる地域活性・189頁・

・大合併でばらまいた毒まんじゅう・191頁・

・地方創生の見本「四万十ドラマ」~「清流と森」ジリキスト」高知県四万十町・192頁・

・ローカル・ローテク・ローインパクト・194頁・

・国策に従わずに守り続けた広葉樹林・196頁・

・循環経済で「地元の創り直し」・198頁・

・疲弊地方の再生拠点「郷の駅」・200頁・

・カネ・ヒト・モノの連結決算・201・

・真の地方創生を示した若き実業家・~「地元創り直し」ジリキスト」徳島県美波町・203頁・


・「半X半IT」で業績拡大・204頁・

・「ソトとナカ」の交流・206頁・

「ジリキノミクス」の3本の矢・208頁・

・あとがき・・「地域主権」と「住民自治」への道・213頁・

平成27年4月2日

8:14 2015/04/02・反骨の市町村・

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